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(B)『香港で文化を創り続ける』(ダニー・ユン、四方田犬彦著 弦書房刊) [本]

2018年1月に福岡で開催された、香港の舞台監督ダニー・ユンの最近の自作を紹介する公演と、四方田犬彦との対談を採録したもの。
香港市民の反中国姿勢が強まる前の時期ではあるが、ユン監督のやってきたことからは、中国政府関係者と対話を続けて、創作を発表する環境を整えてきたことがわかる。中国政府は一方的な悪ではなく、対話を進めれば、何らかの解決策が見いだせるということ。
総括として書かれた四方田の書き下ろし解題に追記された文章--2020年11月記--では、その後の香港の状況も踏まえられて、ダニー・ユンの今後の活動を憂慮していて、のほほんとしている我々が狭い世界に閉じこもっていることを教えてくれる。
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(B)『日没』(桐野夏生著 岩波現代文庫) [本]

創作物の不道徳に対する、昨今の世の中の不寛容な風潮に警鐘を鳴らすのに、小説という手法が有効であることを実証している。
主人公の一人称で書かれているため、彼女が見聞きした話が最後まで真実かどうかわからず、療養所で関わった人たちの本性も不明のまま。「エンタメ」小説と開き直って、主人公が自由を勝ち取る話にしてもよかったと思うのだが、
結末も曖昧なまま--彼女が死んでしまうのか、生き延びるのか--にしたのは、著者が小説中で主人公に語らせた「良い小説」の定義、すなわち「自分に正直に」「自分が書きたいことしか考えていない」ということなのだろう。
ずっと療養所に閉じ込められている主人公の閉塞感を、読んでいる間ずっと感じて苦しくなった。
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(B)『ふしぎとぼくらはなにをしたらよいかの殺人事件』(橋本治著 集英社刊) [本]

これは1983年に刊行されたものの再発。
著者に似た経歴の挿絵画家が探偵となって連続殺人事件を解決する話で、当時流行っていた横溝正史の『犬神家の一族』や『獄門島』を積極的に取り入れていので、軽い調子の語り口で、最後は本格推理の謎解きに進むのかと読んでいたら、結構深刻な内容--人が死ぬからという意味ではない--になってきて、殺人事件の起こった鬼頭家の人々の背景だけでなく、語り手である主人公の「暗い」過去まで描かれる。(人の性格を暗いと称するのは、80年代になって始まったとあって、そういわれるとそうかもしれない。)
主人公と主人公に探偵を依頼した彼女の二人が、鬼頭家を訪れなかったら、殺人事件は起こらなかったかもしれず、題名にある「ぼくらはなにをしたらよいか」よりも「ぼくらはなにをしたか」殺人事件といった趣き。
「なにをしたらよいか」というのは、作中に登場したあらゆる可能性を検討することで、その意味では、大学生たちが「なにをしたらよいか」を検討する『人工島戦記』にも「あるいは、ふしぎとぼくらはなにをしたらよいかのこども百科」と副題を付けた理由については、巻末の「解説」で仲俣暁生が見事に分析してみせている。
著者が『虚無への供物』も参照していたところは、個人的に大いに注目。
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(B)『人工島戦記』(橋本治著 集英社刊) [本]

「あるいは、ふしぎとぼくらはなにをしたらよいかのこども百科」との副題付き。
90年前半、バブルを引きずった地方都市が、海を埋め立てて人工島を作る計画を実行しようとしている最中、地元の国立大学二年の男子二人がそれに反対しようと思いつき、同好の士を集めて人工島同好会を作る。反対運動をどのように進めるか思案、試行錯誤しているうちにアンケートをとったのちデモをすることを決める。
というところまでの未完小説であるが、ここまでで二段組1200頁程の大部。93年に雑誌に発表したのは、160頁分ぐらいだったようなので、その後密かに書き継いでいたようだ。書きなぐっているという印象もなく、よく推敲されている。巻末の111頁分ある索引「人名その他ウソ八百辞典(1993年末現在版)」及び、15枚分の著者手描きの地図を見ると、舞台となる千州にある平野市なる人口110万人のかなり大きな地方都市--福岡を念頭に置いていたと思量する--と登場人物を綿密に作りこんだ上で、執筆されたことがわかる。(索引にはまだ登場していない人物名もいくつかある。)
結末までたどりつくには、おそらくこの量のさらに二倍くらい費やす必要があるだろう。何がそこまで長くさせたかと言えば、登場する各人の背景描写。両親や祖父母の代まで、住んでいる場所に絡めて詳述するのは、スティーヴン・キングも顔負け。
殊に「第よん部」の質屋家族の話は、江戸時代に城下町だったところがその後どのような変遷を経て今の町になったかという見事な都市論になっており、物語の流れとは関係ないながら、一番読ませる。後年著者が書いた小説--たとえば『草薙の剣』--は、時代背景を描きながら人物を描写するという形式を洗練したものだったとわかる。
愛すべき登場人物たちのその後を読めないのは残念だが、想像するのに十分な材料は開陳されている。
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(B)『コロナ時代の選挙漫遊記』(畠山理仁著 集英社刊) [本]

2020年3月の熊本知事選挙から2021年8月の横浜市長選挙まで、まさに疫禍が厳しかった時期の著者の選挙取材をまとめたもの。
映画『NO 選挙, NO LIFE』では、すべての候補者を取材するという著者の方法論に焦点が当たっていたが、この本を読むと、選挙に立候補する人はみな真剣で、その思いは尊いという結果の取材態度であることがわかる。名前や外見だけでキワモノ扱いしてはいけないことが実例を挙げて示されている。
そのひとりである戸田市議会選挙でのスーパークレイジー君。当選したあとの周囲の反応や仕打ちに吃驚したが、その後宮崎市議になっていたのも驚き。(さらにそのあと事件を起こして起訴されていたとは。。)
また『ハマのドン』を見ると、横浜市長選はIR推進派と反対派の戦いたっだように見えたが、この本によればそれは必ずしも正しいとは言えず、疫禍対策の方が争点となっていたことがわかり、見たものをそのまま信じるという態度への反省を強いられた。
なぜ名古屋市民は、あんな市長を当選させるのだろうというかねてからの疑問も、表面的なものしか見ていない外部者の的外れな見解だったと反省。
著者が斯様な取材を続けているのは、選挙に行かない人たちを啓蒙したいという使命感のみならず、音楽ライヴに行く音楽好きと同じ感覚なのだろう。
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(B)『海の見える風景』(早川義夫著 文遊社刊) [本]

今月突然、著者の新刊が発売された。帯に「書き下ろしエッセイ」とある。
最初の二編は、内容が同じためか前作で読んだような文章だったが、そのあとあたりから徐々に最近の著者の生活が描かれる。
日々の暮らしのちょっとしたこと、ふと蘇える昔のこと(たいていは苦い思い出だ)。こんな自分を変えたいのだけれど、変えられない哀しさ。それは自慢でも開き直りでもない。
著者が、斯様に外に向けて文章を書こうという気持ちになって来たことを嬉しく思う。「突然、白肌を魅せた大きな富士山が現れた」なんて艶めかしい文章をさりげなく書けてしまう著者はやはり唯一無二。
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(B)『サレ・エ・ペペ 塩と胡椒』(四方田犬彦著 工作舎刊) [本]

料理に関する随筆。著者の外国での体験に基づく内容の部分は、すでに他の本でもおなじみだが、本作はいきなり、ユネスコの無形文化遺産となった「和食」なるものに異議申し立てをするところから始まる。そこで定義されている「和食」は、普段我々が親しんでいるものではないとの指摘から始まり、「国民料理」「国民食」なるものが定義される。前者は、日本であれば寿司が候補になりそうだが、十分な条件を満たしているとは言い難いところがあり、後者については、これまで誰も挙げなかったぶっかけ飯ではないかとの指摘がすこぶる斬新。
食に関する前著である『ひと皿の記憶』において、ニューヨークの食べ物をとり上げなかった理由の告白もある。彼の地では、ありとあらゆる食べ物があったが、どれもアメリカ的な変形を被っており、真正さを欠落していたから。米国の「国民食」はTVディナーという人もいる。
本の真ん中に橙色の紙の部分があり、著者が「執筆で忙しいときに作るものすごく簡単な料理」が挙げられている。最終章の「台所にいることの悦び」と併せて読むと、嬉々として料理をしている著者の姿が浮かんできて、勝手に親しみを感じてしまった。
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(B)『カメラを止めて書きます』(ヤン ヨンヒ著 クオン刊) [本]

ヤン・ヨンヒ監督の自伝。これまで作って来た作品の背景がよくわかる。
自分に向けられた周囲からの差別よりも、自分の両親に抱く違和感とどう折り合いをつけていくかで長い間苦しんでいたことがわかる。わだかまりがありながら、倒れた父親を看病しているうちに生じた思いというのは、説明することができない肉親への愛情だろう。
『かぞくのくに』という作品は、映画で描かれたような事実があったのかと思っていたが、完全なる創作のようだ。斯様な創作を生み出した兄たちを思う強い気持ちを知ると、またこの作品を見返したくなる。
この著作によって、家族について総括したならば、新しい題材の作品--創作でもドキュメンタリーでも--に挑戦してほしい。
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(B)『ソングの哲学』(ボブ・ディラン著 佐藤良明訳 岩波書店刊) [本]

66曲を取り上げて、それぞれについて語る。形式としては、その歌を聴いて浮かび上がる情景を述べたのち、歌手や歌についての説明を付している。
中には、曲の印象だけで終わってしまうものもあれば、主題にまつわる文章だけのこともある。例えば、ジョニー・テーラーの「Cheaper to keep her」では、離婚弁護士への非難に終始したり、サンタナとイーグルスの曲では、魔女についてひたすら考察する。
選曲基準はひとり一曲というのでもなく、ジョニー・キャッシュやプレスリーなど二曲挙げている人もいる。同世代の歌手は、あえて取り上げていないように見えるし、ウッディ・ガスリーを始めとするフォーク勢の名前もない。(ピート・シーガーの「腰まで泥まみれ」が逆に意外。)
9割以上聴いたことない曲を、一曲ずつインターネットで聴きながら読み進めるのは楽しい体験。さらに岩波書店のホームページでは、訳者による各曲と付された写真についての詳細な解説がある。これも本に収録してほしかったところだが、造本も含め著者の意図するところからずれてしまうからということなのだろう。
個人的に、ディランがザ・ファッグスを評価していたことがわかって嬉しくなった。
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(B)『顔面放談』(姫野カオルコ著 集英社刊) [本]

俳優の顔にまつわる随筆だが、名前を見ればことごとく顔が思い浮かぶ私のような読者を想定して書かれたような本。今どきこれはありえないだろうという嬉しい驚き。
とはいえ、私も「顔など見ていない」--「笑顔か髪が長いかくらいしか見ていない」--輩のひとりで、著者が挙げる似ている二人を見ても、なるほどと思ったのは、浅丘ルリ子と細川ふみえぐらいで、あとはよくわからない。
しかし肝要なのは、著者が役者の表情--声も含む--に注目して映画を見ているところで、作品としてはいいけれど、この役には合っていないといった評が興味深かった。著者の好きな顔ではないからか、田宮二郎に関する分析はとりわけ見事。
最終章が今村昌平の作品という隙間路線で終わるところもよかった。続編もだが、今度は映画--古い邦画--を前面に出した本を書いてほしい。
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