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(B)『香港で文化を創り続ける』(ダニー・ユン、四方田犬彦著 弦書房刊) [本]

2018年1月に福岡で開催された、香港の舞台監督ダニー・ユンの最近の自作を紹介する公演と、四方田犬彦との対談を採録したもの。
香港市民の反中国姿勢が強まる前の時期ではあるが、ユン監督のやってきたことからは、中国政府関係者と対話を続けて、創作を発表する環境を整えてきたことがわかる。中国政府は一方的な悪ではなく、対話を進めれば、何らかの解決策が見いだせるということ。
総括として書かれた四方田の書き下ろし解題に追記された文章--2020年11月記--では、その後の香港の状況も踏まえられて、ダニー・ユンの今後の活動を憂慮していて、のほほんとしている我々が狭い世界に閉じこもっていることを教えてくれる。
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(V)『おとぎ話みたい』(2013年 山戸結希) [ヴィデオ]

「だって、いつでも笑ってばかりの君へ」という副題付き。
女子高生である主人公の脳内音声で話が進むが、早口で語られる彼女の心理は、高校生の性急な思い詰めたような気持ちをよく表していたし、51分という短い上映時間を濃密なものにしていた。
地方の高校で、世界の文化--ダンスや哲学--を教えてくれる先生に出合い、恋するという話に、彼女がバンドの「おとぎ話」の演奏とともにライヴハウスのステージで踊っている場面が挿入される。「おとぎ話」が映画の内容にふさわしいバンドかについては少々疑問はあったが、個人的にはとても楽しめた。やっぱり曲がいいし、一体感のある元気な演奏に惹かれる。
先生は、彼女のことを生徒以上に考えたことはないと回答していたが、最後にふと見せた涙は、やはり彼女に対して特別な感情を抱いていたということなのだろう。
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(V)『団鬼六 薔薇の肉体』(1978年 藤井克彦) [ヴィデオ]

団鬼六ものかつ浦戸宏が緊縛で協力してはいるが、SMものではない。(途中、弁護士が突然女王様にいじめられたい変態ぶりを発揮するが。)ヤクザの情婦が、弟分とその彼女とともに、組から受ける嫌がらせを我慢しながら、夫の出所を待っている。借金返済のためにシロクロショウ--ホテルの部屋の魔法鏡を使って行為を見せる--までやっているのだが、組は彼女を弁護士の情婦にしようと画策するので、三人はアパートを借りて身を隠す。
話の骨はヤクザ映画で、大野武雄なる今作でしか名前を見ない脚本家も、ヤクザものが得意な作家の変名かもしれない。暑い中、アパートに身をひそめる三人の様子は、真に迫っていた。
出所した夫は会う前に殺されてしまうが、いなくなっても夫の体は忘れられないというのが結末。とはいえ、弟分も殺されて、起死回生もないまま終わるのは、すっきりしない。
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(V)『団鬼六 縄化粧』(1978年 西村昭五郎) [ヴィデオ]

今作は、緊縛師浦戸宏が脚本を書いている。よって物語は序破急の展開よりも、縛り及び犬扱いなどを見せることが主眼。
画家夫婦のところに、性生活に不満を抱いている妻が、堅物の夫を連れて、さまざまな遊戯に興じる展開は、それぞれの男女間に愛があるため、見ていて不快な気持ちにはならない。家に戻って、学んだことを復讐する二人が愛おしくなってくる。緊縛遊戯をすることで、夫婦がさらに愛を深めるというのが、浦戸が言いたかったことだろう。ついでに、真面目一辺倒の夫が出世したという後日談があったら面白かった。
最後、夫の出勤を見送る妻の脳裏に浮かぶのは、犬になって河原を散歩する自分。それにしても、シェパード犬に後ろからのしかかられるという眼を瞠るような場面がよく撮れたものだ。
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(V)『金曜日の寝室』(1978年 小沼勝) [ヴィデオ]

金曜日、会社の終業が合図されると、女子社員はトイレで下着をはき替えて、、という始まりは、現代OLものという始まりだった--大勢が働いている広い事務所風景はさすが日活と見た--が、物語は部長と肉体関係にある女子社員と、それを邪魔しようとする花屋の女の三人をめぐるもの。
戸川昌子の「金曜日の晩に」が主題歌として使われていて、本気で部長を愛している女子社員の気持ちを歌っているよう。(彼女が妻子ある部長を「あなた」と呼ぶのはちょっと違うような。。)
二人に割って入る花屋の女の狂気じみたところ、たくさんの花の上で寝る男女という画、小沼監督演出は説得力がある。
最後は、小型機動艇を使って、二人が派手に死んでしまうという破滅・心中ものといった結末。本作品は87分あって『桃尻娘』との二本立て興業だったが、彼の作品の併映とするのはふさわしくないだろう。
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(V)『原作団鬼六 黒薔薇夫人』(1978年 西村昭五郎) [ヴィデオ]

主人公がイタリアから帰国して、自宅へ帰るまもなく、監禁されてずっと責められ続けるという、息を抜くところもない内容。
そのうち、彼女の夫が行為中に心臓麻痺で死んだり、その相手となった若い女が、試し吊りの最中に頭から落ちて死んだり、周囲の人たちが次第に退場して、さらに重苦しくなる。
斯様な話の場合、責められていた彼女が、ひとり新たな道を歩み出す展開になるところだが、今作は、彼女も大仰な最期を遂げる。(首都高速から檻が落下する画はどうやって撮ったのだろう。)
何も知らず、夫の帰りを待ってひとり縛りの練習をする妻で終わるところが、脚本の桂千穂の滑稽か。
西村監督が団鬼六の緊縛ものを手がけるのは、今作が初めてのようだが、そのあと谷ナオミの引退作に指名されるだけあって、彼女の汗まみれの困った顔など、見せ所を心得ている。
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(V)『マンダレイ』(2005年 ラース・フォン・トリアー) [ヴィデオ]

物語は、『ドッグヴィル』の主人公がコロラドの自宅に戻ったのち、父親とともに別の地へ移住する途中、アラバマのマンダレイという町で、黒人労働者たちの中に身を寄せるというもの。父親がギャングで、車が昔の型という設定は、20世紀初頭かと見ていたら、1933年という時代が明示された。
前作が、小さな共同体のなかでの人々の偽善を暴くという主題で、今作は奴隷制度が無くなったのちも奴隷のように扱われている黒人問題が主題。主人公は、今作でも話に深く関与する--真面目と信じていた黒人に抱かれたあと、彼の正体を知る--が、あくまでも触媒としての役割で、彼女の心理を音声で説明するのは、見る者が不用意に感情移入するの避けるためかもしhれない。
黒人が自由を求めて外へ出てゆこうとしないのは、彼ら自身に問題があるという考えさせられる観点。
前作同様、デイヴィッド・ボウイの「ヤングアメリカン」--軽快なソウル音楽--、が最後に流れたのは、米国の問題点を掘り下げているという意識ゆえ。
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(V)『ドッグヴィル』(2003年 ラース・フォン・トリアー) [ヴィデオ]

手持ちカメラと章立ては、いつものフォン・トリアー監督方式。さらに、舞台劇より単純化した舞台装置と、音声による説明は、演劇を飛び越えて小説を読んでいるかのよう。
なにゆえにこのような方式を考えたのか、映画であることの意味は何なのかと考えてみたが、思い当たらない。これでは主人公の気持ちを想像したり、共感することができない。ドッグヴィルという町の閉鎖性、偽善性に目を向けてもらうための措置か。
最後、目を覆いたくなるような残酷さが回避されたという点では、この方式でよかったとはいえるが。。
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(V)『ダークグラス』(2022年 ダリオ・アルジェント) [ヴィデオ]

物語といい、衝撃を与える場面といい--首が掻き切られて血が噴き出る--、いかにも、さあ見どころに来ましたよ的な音楽の付け方といい、80年代の恐怖映画そのままという感じ。
主人公を追って来る男のやり方も、使い古された手だし、主人公が逃げる途中で見つけた無人の機械小屋に起死回生となる機械などがあるのではと見ていたら、最後までひねりがないまま終わってしまった。
それでも、吃驚させるようなことがあるのではと見ていたら、中国人と少年と空港でお別れして終わりとはこれいかに。
ダリオ・アルジェントが、現在も現役で映画製作を続けているという以上の意味が見いだせなかった。。(主人公の性格づけと、中国人の少年という取り合わせは、よかった。)
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(V)『青春大全集 愛とは何か』(1970年 水川淳三) [ヴィデオ]

「青春大全集」なる題名は、日活青春映画をそのまま松竹に持ってきたような響き。そこから群像劇を想像してしまうが、横浜を舞台に22歳の男女の恋愛の行く末を描く内容。
二人は、土曜日だけ接吻をするという取り決めをしていて--昼間公道で熱烈に接吻するという激しさ!--、それが肉体関係にどう進むかという主題を取り入れているところは一歩進んだか。
しかし、最後婚姻届けを出しても、接吻だけのまま終わる。(男が前衛詩人なる女と寝た事実はどうなったのか。)
水川監督は、丁寧な画面づくりをしていて、さらに演ずる二人のよいところを自然に引き出していた。見合い相手が、竹脇無我と最強だったのに、主人公は映画初出演の松橋登とハッピイエンド。
子どもを狂言回しとして使うところは、個人的に好かなかった。
吉永の歌う主題歌の他、歌手の宣伝も兼ねていて、由紀さおり--「手紙」--、日吉ミミ、野村真樹--久々に思い出した--と、三人も歌う場面があった。
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