SSブログ

(B)『マルメロ草子』(橋本治著 ホーム社刊) [本]

20世紀初頭のフランス貴族姉妹を描いた小説。元は2013年に「限定版として刊行された」とあるが、一般には販売されなかったということか、初めて耳にする書名。
著者らしく当時の貴婦人が語るような口調--「ございます」「ございました」--の文体で書かれており、冒頭から無粋に時と場所を特定するのではなく、「前の世紀」や「青緑のスペイン扇を優雅に逆立てましたような、ムッシュー・の美しい鉄塔」などと描写を連ねていくうちに、読む者をその時代と場所にいざなうような仕掛けとなっている。
姉の結婚と恋愛、妹の不倫の物語の本質は、著者が時代と不可分な男女の在り方を考察する日本を舞台にした小説群と繋がっているものがある。「結婚というものは、愛情でするものではない。ただ、するもので、続けるものだ。」という夫の言葉や、「恋は、結婚してからのお楽しみにすればいい。」という侯爵夫人の言葉が箴言に思えてくるのは、自然描写も含めたその世界を構築するための道具立てが豊かに細かく描かれているため。
伯爵夫人の仮面舞踏会で風雲急を告げたのち、オペラ座にロシアバレエ団を見に行く場面でさらに盛り上がる流れが見事。
nice!(0)  コメント(0) 

(B)『私の文学史 なぜ俺はこんな人間になったのか?』(町田康著 NHK出版新書) [本]

著者の小説にも音楽にもほとんど接したことはないのだが、西村賢太の日記にしばしば名前が登場するので読んでみた。
全十二回からなる講演録を収載したもので、宮本浩次を彷彿させる語り口だが--著者が聞いたら怒るかもしれぬ--、講演録にありがちな「(笑)」という表現がないのは好もしい。
題名から期待される文学遍歴は、最初の三回ぐらいまでで、あとは著者の文学に関する考え方が披瀝されていて、これが面白い。その理由は、著者が聴衆にわかるように、抽象的な考え方をできるだけ具体的に示そうとしているから。
古典の世界に入ることは、今の世の熱狂化から逃れることだとか、古典を現代語にするにあたり、現代の常識に合わせて改変するなど、なるほどと思わされ、いろいろ考えさせられた。
西村賢太についても言及されていて--この講演が行われた際はまだ存命であったと思われる--、本当の気持ちことを書くのがエッセイが面白くなる秘訣だが、それをやっている人はほとんどいないという文脈で、「西村賢太の小説が、なぜ。おもろいか。ホンマに書いているからです、思うたことを。」と述べている。「小説」と言っているところが多少気になるが。
今度著者の小説に挑戦してみよう。
nice!(0)  コメント(0) 

(B)『おいぼれハムレット』(橋本治著 河出書房新社刊) [本]

「ハムレット」を落語にしたらどうなるかという発想で創作されたと思しい。(2017年執筆)
巻末の解説で、架空の明治時代の文芸評論家が、初めて上演された頃の「ハムレット」舞台劇の受容のされ方を解説しており、シェイクスピアの原作の筋書きについても紹介されているので、本作の内容とどう異なるかがわかった。また、明治時代にハムレットが舞台上演された際は、仇討ものなれど、歌舞伎のように直截的に仇討とならないところが、当時の観客を戸惑わせたとあって、著者はそのあたりも勘案した上で、落語の観客に馴染むように原作のクライマックスにあたる部分を面白おかしく改変している。話の中に登場する劇も、著者の得意分野である歌舞伎に仕立て直すなど、舞台はデンマークなのだが、日本人に馴染む話となっていた。
「落語世界文学全集」と銘打たれているのは、これに続いて世界の有名な話を落語仕立てにすると企てがあったのだろう。
nice!(0)  コメント(0) 

(B)『土偶を読む 130年間解かれなかった縄文神話の謎』(竹倉史人著 晶文社刊) [本]

今年6月、三内丸山遺跡の説明を聴いた際、講師が土偶に関して、最近話題になっている本があるがあれも確証はないと見下したような態度をとっていたのが気になり、調べてみてこの本に行き当たった。
出版されたのは2021年4月25日で、私が読んだ本が5月15日の2刷なので、世間で評判を呼んだらしいことがわかる。
考古学者ではない著者が、土偶が何を象ったものなのかに関して考察した本で、読み始めの頃こそ半分眉唾で読んでいたのだが、最後はこれこそ「定説」になるべき考え方だと納得した。
「ハイバックチェア」にもたれかかりながら思考したとか、「アシスタント」に試食させたとか、わざと専門家から反感を買われそうな書き方をしているのではと思われる部分もあったが、その研究態度は真摯で、机の前で思考するだけでなく、土偶が発掘された現場に足を運んだり、貝の採取やサトイモの飼育を実際行って検証するなどの地道な努力が成果に結びついた。
「おわりに」にあるように、著者が研究成果を縄文研究者たちに見せたところ、大半が「コメントしようとせず」、中には「世に出ないように画策する者まで現れた」という。これは土偶研究の世界にとどまらない、「官僚化したアカデミズムによる知性の矮小化」という学問世界の体質で、この書はそれに挑戦した画期的なものであると興味深く読んだ。
今後は、これら土偶が実際にどう使われたのかという点と、土器など他の縄文遺物によって著者の説が補強されることを期待したい。
nice!(0)  コメント(0) 

(B)『誰もいない文学館』(西村賢太著 本の雑誌社刊) [本]

著者お気に入りの作家を取り上げた文章を「小説現代」に連載していたことは知っていたが、現物を眼にしたことがなく、こうして単行本としてまとめられたのは喜ばしい限り。それにしても、知らない名前ばかりが並ぶ。
各章、著者と書籍名を題名としているが、それぞれの経歴は紹介されていても、本の感想はほとんど書かれていない。なんとなれば、「敬する作家に限っての初版本指向」で、著者が架蔵している初版本を写真とともに見せることが主眼となっているから。これらの本を渉猟することによって、大正から昭和初期の文壇についての著者の知識は相当なものであったことがわかる。
知る人が少ない作家の作品を掘り出して、そこに心を通わせていた著者の気持ちのありようが見えてくるようだ。
『雨滴は続く』に登場した倉田啓明も取り上げられていた。(ただし、貴重な『地獄へ堕ちし人々』の書影はなく、『根津権現裏』の署名付き無削除函付本と交換したとのこと。)
これを読めば、「藤澤淸造全集内容見本」を見たくなること必定だが、ありがたいことに本の雑誌6月号に掲載されていたので、探し回らずに済んだ。
nice!(0)  コメント(0) 

(B)『さらば、ベイルート ジョスリーンは何と闘ったのか』(四方田犬彦著 河出書房新社刊) [本]

文中に年号は明記されていないが、おそらく2012年、著者はパリで映画監督のジョスリーン・サアブと初めて出遭い、交流を深めるうち、彼女の新作の発案と、資料提示及び内容説明の協力を行ったことが綴られている。
新作の主題とは、重信房子とメイに関するドキュメンタリーで、とすればPANTAが登場するのではと読んでいたら、予想を上回る二か所で名前が登場。ことに後者--161ページ--では、著者が「PANTAのCDの歌詞を翻訳し」たとあって、さすればジョスリーンは、『オリーブの樹の下で』アルバムを聴いたのだ!
ジョスリーンは、この作品を七分の短編として完成したのち、2019年1月にガンで亡くなってしまう--偶然橋本治と同じ年月--のだが、志半ばで亡くなり、著者が彼女から個人的にもらった自伝を片手に、彼女の故郷であるベイルートへ行って、彼女の足跡をたどるという構えはメロドラマ。著者は、彼女の作品を冷静に分析することで、必要以上に感傷的になることを避けてはいるが、パリやベイルートを舞台とするこの感動的な随筆は、著者にしか書けないものだ。
「後記」によれば、この文章は亡くなった直後には完成していたようだが、二年半そのままにしていたのは、こんな個人的なメロドラマを出版してもいいかという著者の逡巡があったのかもしれない。しかし、結果重信房子の刑期満了のお祝いとなったと言える。
今年になって著者はあらたに女ともだちをひとり一人紹介する随筆を書き始めたが、これがそのきっかけとなったに違いない。優秀な女性たちと斯様に交誼が結べるのも著者の能力のひとつ。
nice!(0)  コメント(0) 

(B)『雨滴は続く』(西村賢太著 文藝春秋刊) [本]

北町貫多の小説が、同人誌から商業誌に転載されたところから始まり、何作か商業誌で作品を発表したのち、芥川候補になって落選するまで--芥川賞の候補になったと手紙をもらうところで途切れているが--を描いた長編。485ページとは、これまでで最長作。
斯様な背景の下、書かれていることの中心は、二人の女性に対する「岡惚れ」の経緯であり、「分けのわからぬ不様さに於て、(中略)筆頭のケースであり、(中略)最も特異な位置を占める記録」とあとで述懐する。
相手の気持ちを想像し、頭の中で駆け引きを組み立てる様が、延々とつづられる。新聞記者の女性にいたっては、一度会ってそのあと同じ日に電話で話しただけなのに、その後、半年以上にわたって、手紙作戦を敢行し、音沙汰がなくなって身を引くという調子。
相手のことを思い妄想を拡げる様は、ある意味普遍的な恋愛の一面であり、長編という舞台で、思う存分それを描ききった著者にとっての新たな取り組みと言える。「“恋の駆け引き”のステージ」に突入したとか、「復活!」など、貫多のひとりで盛り上がる様が滑稽至極。
題名は、悶々とした生活が続くことを表しているのかと思ったが、最後の方で、藤澤淸造に関することを「何十度となく繰り返し」文章に入れることを指しているようだ。女性に関する部分だけ取り出せば、もっとすっきりするのに、並行して藤澤清造愛を披歴するのは、著者の癖というより強い意志を持ってやっていることが、小説中にも明記されていた。
「無意識過剰な作家的ふてぶてしさ」とはうまい表現だと感心していたら、もともと江藤淳が石原慎太郎を評した表現のようで、石原好きの著者としては、使ってみたくなったのだろう。
また、自らを修飾する表現の多彩さに比べると、たとえ話は少ないのだが、藤澤清造の著作を売るという行為を、江夏を獲得するために高橋直樹を手放した日本ハムファイターズに例えているのは個人的に大いに笑った。
nice!(0)  コメント(0) 

(B)『仏果を得ず』(三浦しをん著 双葉文庫) [本]

文楽という題材を小説の中に取り入れる力業は大したもの。文楽を演ずる人たちがこの小説の登場人物で、人形遣いではなく、浄瑠璃を語る大夫を主人公としているところがミソ。歌われる内容をどう解釈し、どう心をこめるかという芸道もの。それも今の時代を舞台として。
各章ごとに文楽の演目をひとつ選び、主人公の成長物語と同時に、演目の主題に関連するような話を取り込むという形式もうまい。ただ、芸の道を究めようとしている主人公に恋愛をさせる--それも文楽を教えている小学生の子どもの母親--のは、無理矢理で戯画的な感じがしたが、そこも文楽で語られる話の世界に合わせたと見るべきか。
「仏果を得る」とは最後の章の主題でもある「仮名手本忠臣蔵 勘平腹切の段」に出てくる言葉で、仏果を得て成仏するよりも、芸道を究めるためこの世にとどまり生きて生きて生き抜くという主人公の決意を表している。
nice!(0)  コメント(0) 

(B)『皆殺し映画通信 あばれ火祭り』(柳下毅一郎著 カンゼン刊) [本]

今回の2021年分は、こんな映画があるのという驚きが少なかった。著者が「天敵」と称する福田雄一映画が一本もなかったし、地方映画も減っているような気がする。ひとり気を吐いている幸福の科学映画だけでは、著者が腕を振るう場がなくなってきたということかもしれない。
映画紹介は、170ページで終わり、残りは配信で見た総決算。内容は見たとおりだったが、高橋ヨシキとの対談はやはり面白く、近々公開の高橋長編初監督作『激怒』は是非とも見に行きたい。
最後の10年目なので「今年一年頑張る」という著者の弱気な発言も気になるところ。出版社からも見放されそうになっているのかもしれず、それが前回の1,800円(税前)が、2,200円(税前)というとんでもない値上げに反映されているのかもしれない。(去年の337ページに比べ、今年は280ページと紙代も減っているにも関わらず。)
nice!(0)  コメント(0) 

(B)『夕焼け雲の彼方に 木下惠介とクィアな感性』(久保豊著 ナカニシヤ出版刊) [本]

「あとがき」によれば、この本は著者の京都大学博士論文が基になっているという。斯様な映画研究が大学院で行われているとは隔世の感あり。
「はじめに」「序章」で、「木下映画を肌理に逆らって読み、積極的な誤読を通じて、クィア批評が重ねてきた言葉の力を用いて」分析するという表現が何度か出てくるため、時々現れる勘違い批評かもしれぬと構えてしまったものの、とりあげた作品--六作品--に対する分析は、すでに先行する批評でクィア的視点があるものを紹介したうえで、そこから自分の論を展開するという慎重な姿勢を貫いている。
また、ヴィデオでの視聴を最大限に活用し、被写体の大きさ及び編集を細かく分析することで、クィア表現を招き寄せてしまう場面を指摘するのやり方は説得力がある。画面分析では、『海の花火』のそれが見事であったし、『夕やけ雲』における主人公の回想は単なる懐古趣味ではなく、永遠に輝き続けるのだと言い切る感性こそ著者ならではの視点である。
著者は米国で勉強したためか、「あとがき」におけるこれでもかという謝辞の名前の羅列が度を越している。また、前半に誤字、脱字が少しあったのが気になった。脱字があるのは珍しい。
nice!(0)  コメント(0)