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(映画)『青春ジャック 止められるか、俺たちを2』(2023年 井上淳一) [映画]

劇中、「新藤兼人監督が、誰でも自分を描けば、一本は傑作を創ることができると言った」というセリフがあったが、井上監督は、見事にそれを実践してみせた。
1983年に若松孝二が名古屋にシネマスコーレを作った時代の話で、主役は木全支配人と、名古屋で浪人生をしていた井上監督自身。若松監督は、二人の触媒としての役割で、彼を真似た演技が大いに笑わせてくれる。前作は吉積めぐみを主人公としてしまったが故に、笑いを前面に出すわけにはいかなかったが、喜劇的要素を強くしたことで、前作より面白かった。笑いながらも、随所に登場する支配人、井上、若松それぞれの映画観に大いに首肯する。(大林の映画なんかなんでかけてるというセリフに笑った。)
しかし、この映画の肝は、実在したのかわからないが、映画館で働く、在日の金本という女性の存在。
映画を撮りたくても何もできなかった彼女が、井上に対して向ける嫉妬の視線が、彼を客観的に捉え、彼自身に自省を迫る存在となっている。年長の木全支配人に存在も生きてくる。
最後におまけのような、若松監督は、天国で亡くなった人たちと会っているという挿話はすこしやりすぎの感はあるが、足立に電話をする場面など、若松監督への思慕が全編に漂っているところもよかった。
井上監督--実質は若松監督か--が撮った、河合塾の映画は、エンドロールで少し見せてくれたが、全編見られる機会はないのか。また、その映画に出ていた赤塚不二夫役の吉岡睦雄は、まことに適役だった。
かっこいい音楽をつけたのは、何と宮田岳!今のシネマスコーレの顔である坪井篤史もしっかり出ていた。
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(映画)『男度胸で勝負する』(1966年 村山新治) [映画]

時代は昭和の始め。場所は特定されていないが、川越あたりでロケをしたのではないか。
前年に公開された『昭和残侠伝』の脚本家、山本英明と松本功による物語は、同工異曲。主演こそ違え、池部良が二番目の位置にいるのも似ている。この二人と、父親役の辰巳柳太郎を交えて、肉親が対決しなければならなくなるという流れ。(池部が住んでいるのは、川崎大師の近く。)
最後は、周囲の人をすべて殺された主人公が、堪忍袋の緒を切って相手の親分を殺すのだろうと見ていたら、ためらったまま止めてしまうという現実感ある終わりが面白かった。(ヤクザの家を飛び出した娘で締めくくったのも、ヤクザの虚しさを表していた。)
村山監督は、ヤクザ映画の続き物監督には組み込まれなったけれど、気持ちの動きを丁寧に見せていた。
三木稔なる音楽家を意識したことがなかったが、本作では、尺八や琴などの和楽器を複数ならして、現代音楽のような曲を付けている。これが、ヤクザの義理人情の世界で不自由を強いられる登場人物や、所詮は皆犬死にの運命にあるという厭世観を出すのに、うってつけ。
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(映画)『わたしのかあさん-天使の詩-』(2024年 山田火砂子) [映画]

現在養護施設の院長をしている女性が、知的障がい者であった両親のことを回想するという内容。
説明がかったセリフや、いかにもという演技と先の読める展開は、教育映画を見ている気分になったが、話の中心となる、回想場面での母親--常に明るい--と小学生だった主人公とのやり取りは無理がなく、素晴らしかった。殊に、主人公が母親が障がい者だったと知って、衝撃を受け、周囲に本音をぶつけるところは、身につまされる迫真ぶり。演じる、落井実結子なる子役が完璧。
徘徊老人、障害者年金を当てにする親、ウクライナ戦争反対など、話の主題と外れたものまで言及していたのは、92歳だという山田火砂子監督が、主張としてどうしても入れ込みたかったのだろう。
主人公は、母親と二人の写真を何度も見て、彼女のことを回想していたが、父親がどうなったのかは、描かれず仕舞い。
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(映画)『戦雲(いくさふむ)』(2024年 三上智恵) [映画]

本ドキュメンタリーは、ここ6、7年くらいの間、沖縄の各島に防衛省がミサイル配備を進めている様子に焦点を当てている。
まず、順番に与那国島、宮古島、石垣島の現状を、それぞれに暮らす人たちの視点から紹介した上で、そのあとは、それらの人を往還する形で、状況の進展を見せ、沖縄本島の状況も触れている。
斯様な内容であれば、専門家のインタヴュウで本当にミサイルが必要なのかを補強するものだが、住む人々の反応をつないで行けば、そんなものは必要ないという三上監督の姿勢はあっぱれ。
憎むべき組織として対峙している防衛省についても、与那国島のハーリー競争で、漕ぎ手に加わった自衛隊員たちを写すことで、我々は国に向かって声を上げていかなければいけないことに気づかされる。このハーリー競争の場面は、重苦しい話の閑話休題にもなっていて、とても楽しい。
また、ひとりカジキ採り挑む「老人と海」の主人公のような年取った漁師は、自衛隊について必ずしも反対ではない。しかし、見る者は彼の生活を奪うことは許されないという思いでいっぱいになるのだが。彼が、足のケガが癒えたのち、初めてカジキを仕留める場面を最後に持ってきたのは、島で暮らす人々を活写するこの作品の、見事な大団円となっていた。
楽器の数および音数の少ない印象的な音楽は、何と勝井祐二だった。
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(映画)『恐喝(きょうかつ)』(1963年 渡邊祐介) [映画]

この映画が公開された年は、ヤクザ映画元年で、まだ一般的ではなかった。この作品でも、ヤクザという言葉は使っていない--本人は「不動産屋の幹部社員」と称していた--けれど、この主人公はまぎれもなくヤクザだ。それは禁欲的ということではなく、自らを半端ものと自覚して、わざと露悪的に振舞うことであり、また貧乏な出自の主人公は、優雅な暮らしをしたいという野心を人一倍持っている。
彼が、身の隠し場所を出奔した故郷--江東区の大島あたりでロケをしたよう--に求めたところがよく出来ていて、彼はそこに暮らしていたころの記憶と、周囲の友だちによって、自らの立ち位置を再認識することになる。
「大きな仕事はひとりでする」主義の主人公と、彼を慕う弟分が、親分に命じられて彼を殺そうとして犬死してしまう場面に続き、彼が孤軍奮闘して殺されてしまうまで、一匹狼の哀愁が漂っていた。石炭の山の上からずり落ちて来る場面の鮮烈さが印象的。
キャバレー場面で、潮健児がひとりドラムスを叩いている場面があったが、実際にドラマーだったのだろうか。
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(映画)『さよならほやマン』(2023年 庄司輝秋) [映画]

キワモノか、地方映画かと思ったらさにあらず。庄司監督は石巻の出身とのことで、東日本大震災に今でも苦しんでいる人たちがいることをどうしても描きたかったようだ。劇中では、多部島と架空の場所を舞台にしているが、ロケは石巻の近くにある網地島とあった。
ホヤ獲り漁師の兄と、震災で精神を病んでしまった弟の二人暮らしの家に、東京にいられなくなった女性漫画家が強引に押しかける。借金で首の回らない兄が、家を買いたいと札束を見せられても、積極的に動かないのは変だなと見ていたら、震災で海に消えた両親の帰りをずっと待っていたのと、海で獲れたものは一切口にせず、それで兄弟ともカップ麺ばかり食べていたことがわかってくる。
兄弟及び漫画家が、互いに傷を癒して回復していく流れは既定路線だが、庄司監督は、ゴツゴツしたものをちりばめ、安易な結末へもっていかない。精神の均衡が崩れてしまったのは、弟だけでなく、兄もなのだ。島から見る美しい海の風景と、そこに暮らす人々の気骨ある言動に心打たれる。
ほやマンの動画を撮って金を稼ぐという発想が突然出てくるところは、ちょっと短絡だったが、ほやマン自体父親が考案したもので、動画の挿話が劇中で浮いてはいなかった。
最後、一緒に暮らすといっていた漫画家が東京へ帰ってしまったというのが意外で、手紙の内容が「さよならほやマン」だったとしたら、もう戻って来ないとなるのだが。。
最小限つけられていた音楽は大友良英。最後にボ・ガンボスの「あこがれの地へ」が流れるのは、庄司監督の趣味と思われるが、最高の選曲!
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(映画)『かづゑ的』(2023年 熊谷博子) [映画]

長島愛生園に暮らす、宮﨑かづゑさんと夫の姿を2014年ごろから2020年まで撮影したドキュメンタリー。
愛生園については、さまざまな機会に耳にしてきたが、長島という場所が瀬戸内海に浮かぶ島だったとはこの作品で初めて知った。患者を乗せた船が着いた桟橋の遺構を見て、本当に厳しく隔離された場所だったことがわかる。使われていない昔の建物などを含めて、これらは世界遺産として保全すべき施設だろう。
今でも園に留まる人たちは、らい病--かづゑさんは、ハンセン博士が発見するよりずっと前からあった病気だからという理由でハンセン病と言わない--は治っているが、後遺症があったり、かづゑさんのように80年も暮らして他に行く理由がないから。
撮影されることを了承したのだから、自分のすべてを撮ってほしいというかづゑさんは、カメラの前でよく涙をこぼす。その涙は熊谷監督の優しい存在があればこそなのだが、普通の人の何倍もの涙の重みを、見る者はひしひしと感じる。
映画が進むにつれ、明瞭に話す、頭脳明晰なかづゑさんの剽軽な部分も見えてきて、さらに夫婦で暮らしを立てていく『人生フルーツ』の二人のようにも感じられて来た。『人生フルーツ』のごとく、夫は亡くなってしまい、おそらく疫病下であったため、骨壺となって初めて対面したと思われる哀しい場面が最後にある。
しかし、上映後の監督の話で、かづゑさんはその後も元気で、最近は水彩画に取り組んでいるという話を聞き、「かづゑさん的」人生を謳歌している姿が目に浮かび、映画の余韻がさらに増幅した。
かづゑさんの著書をぜひ読んでみたい。
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(映画)『火の壁』(1959年 岩間鶴夫) [映画]

無理やり犯された女性が彼氏に別れを告げ、犯した男の妻になるも体を許さないという状況は、他の映画で見たことがあるような気がする。それを、阿蘇の大自然を背景に展開しようとする試みは、日本的ではない外国文学の世界を志向しているよう。
女に振られてしまったことで、阿蘇の地で人々の役に立とうと考える主人公--外科医なのに馬の診察もしてしまう--を応援する周囲の人たちが小気味よい。(一方、悪役がちょっと迫力不足。)
物語の重要な展開は、阿蘇ではなく東京で起こるのだが、クライマックスは突然の阿蘇の噴火!
二人を殺さずに、生かして結ばれる展開にしたほうがよかったと思うのだが。
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(映画)『かあさん長生きしてね』(1962年 川頭義郎) [映画]

東京--神田淡路町あたりのよう--のクリーニング店に住込みで働く青年は、青森の十三出身で母は、親戚の家で家政婦として働いている。彼の中華料理屋で働く娘との恋愛話を織り交ぜながら、母親との関係を描く。
雇い主と雇われ人の格差--いくら働いても金が貯まらない--の話が、当時の状況を反映していて、貧しかった時代を認識させる。また、主人公と娘は相思相愛をなのだが、彼女の兄はもっと固い職業の男に嫁がせたいと思っている。(しかし、主人公の母から直接お願いされては、仕方がないだろう。。)
せっかく上京して働き始めた母親が、肺病で帰ってしまうという暗い流れが、最後は呼び戻して東京で治療を受けるという希望ある結末となったのが、とてもよかった。(「保険」が強調されていたのは、これも時代を反映していたのか。)
途中、お盆で帰省する場面で、十三の祭りで「十三の砂山」が歌われる場面は、個人的に大いに注目した。
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(映画)『アリラン ラプソディ ~海を越えたハルモニたち~』(2023年 金聖雄) [映画]

川崎市の桜本地区に住む所謂在日一世の女性たちにカメラを向けたドキュメンタリー。
金監督作は、冤罪に関するものしか見たことがなかったが、金監督自身在日二世で、すでに亡くなってしまった母親と同じような体験をした人たちの話を聴きたいというのが、製作の動機との由。
対象となる人は数人いるが、彼女たちの話を聴くだけで二時間もつのかと見ていたら、カメラを回し始めた1999年あたりからの映像を盛り込みながら、安保法案反対のデモ行進など、盛りだくさんで飽きさせない。
皆で沖縄旅行をする映像もあって、これは余計だろうと見ていたら、何と普通の観光ではなく、現地の戦争の爪痕を見に行くような旅で、まるで『沖縄狂想曲』の続編かと見まがうよう。(米軍が撮った同じ映像も使っていたし、チビチリガマの出来事を説明する知花昌一さんまで登場した!)
映画が終わってみれば、今あるハルモニたちの思いが、個人的な苦難を経た上で、「戦争は二度と起こしてはならない」というところに収斂したことがわかり、そんな彼女たちの思いが、沖縄で戦争で苦しめられた人たちと呼応したということで、この場面は必要だったとわかった。
金監督は、彼女たちの今の様子を刻印することが大切というかのように、個々人の家族や、写していた人たちが亡くなるといった事件をあえて排しているように見えた。
それから、彼女たちの生活を支援する三浦知人という人に個人的に注目した。
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