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(V)『ダークグラス』(2022年 ダリオ・アルジェント) [ヴィデオ]

物語といい、衝撃を与える場面といい--首が掻き切られて血が噴き出る--、いかにも、さあ見どころに来ましたよ的な音楽の付け方といい、80年代の恐怖映画そのままという感じ。
主人公を追って来る男のやり方も、使い古された手だし、主人公が逃げる途中で見つけた無人の機械小屋に起死回生となる機械などがあるのではと見ていたら、最後までひねりがないまま終わってしまった。
それでも、吃驚させるようなことがあるのではと見ていたら、中国人と少年と空港でお別れして終わりとはこれいかに。
ダリオ・アルジェントが、現在も現役で映画製作を続けているという以上の意味が見いだせなかった。。(主人公の性格づけと、中国人の少年という取り合わせは、よかった。)
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(V)『青春大全集 愛とは何か』(1970年 水川淳三) [ヴィデオ]

「青春大全集」なる題名は、日活青春映画をそのまま松竹に持ってきたような響き。そこから群像劇を想像してしまうが、横浜を舞台に22歳の男女の恋愛の行く末を描く内容。
二人は、土曜日だけ接吻をするという取り決めをしていて--昼間公道で熱烈に接吻するという激しさ!--、それが肉体関係にどう進むかという主題を取り入れているところは一歩進んだか。
しかし、最後婚姻届けを出しても、接吻だけのまま終わる。(男が前衛詩人なる女と寝た事実はどうなったのか。)
水川監督は、丁寧な画面づくりをしていて、さらに演ずる二人のよいところを自然に引き出していた。見合い相手が、竹脇無我と最強だったのに、主人公は映画初出演の松橋登とハッピイエンド。
子どもを狂言回しとして使うところは、個人的に好かなかった。
吉永の歌う主題歌の他、歌手の宣伝も兼ねていて、由紀さおり--「手紙」--、日吉ミミ、野村真樹--久々に思い出した--と、三人も歌う場面があった。
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(V)『津軽じょんがら節』(1973年 斉藤耕一) [ヴィデオ]

瞽女の話かと思っていたら、そうではなかった。
敵対する組の親分を勝手に殺したため、双方から命を狙われている若いヤクザと女が、女の故郷である津軽に逃げて来て、そこで暮らし始める。
荒涼とした風景の中に置かれた二人を、荒い波の海の風景、時折背後に流れる津軽三味線の歌が、さらに強調する。その風景に押しつぶされまいと、男はずっと背広姿で生活している。
注目すべきは、説明的な回想場面が一切ないところ。そして、津軽という場所からカメラが一歩も外へでないことで、もうひとつの主役である風景の印象を強烈なものにする。
男が最後に追ってきた者らに殺されてしまうだろうことは予測がついたが、この場面処理もいたって簡潔に済ませているところが逆に余韻を残す。
津軽ということで、「やさぐろ節」がアカペラで流れた。男たちがバスに乗って出稼ぎに出発する場面は、先日見た『奇跡の海』と通じるものがあった。
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(配信)浜田真理子@南青山マンダラ(03/20/2024) [配信ライヴ]

祭日の昼間に行われたライヴ。昼間ではあるが、配信を見る限り、夜の世界のよう。
最初に浜田がひとりで二曲演奏したあとは、サックスのMarinoが加わる。Marinoもイスに座って、静かに吹いていて、浜田の落ち着いた、しっとりした歌が続く。
「愛の風」とか「アデュー」なる曲は、新曲だろうか。もうだいぶ新しい曲がたまったはずだから、今年の全県制覇ツアーが終わったら、来年は新アルバムを期待したい。
この日はカヴァー曲が少なめ。もう一、二曲は聴きたかったところ。

1. The Crow 2. 愛の風 3. 予感(インスト) 4. 恋ごごろ 5. 祭りの花を買いに行く 6. アデュー /7. マウヌアラ(Marinoソロ) 8. ミシン 9. 胸の小箱 10. たましいのレストラン 11. 月のあかり 12. 場末哀歌 /en. わたしたちのうた
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(V)『淫乱看護師』(2008年 城秀夫) [ヴィデオ]

看護師が入院患者のされるがままになっている。何のことだろうと見ているうちに、昏睡状態になっている彼氏の治療費を稼ぐためとわかってくる。それに併せて、彼が元気だったころの思い出が描かれる。
少し狂気じみたところもある彼女の献身的な看病は、最後は実を結ぶのが当然だろうと見ていたら、吃驚な展開。昏睡状態になっていたのは、彼女のほうだった。。さすれば、それまでの描写は眠っている彼女の脳内で見たものということか。。
いかにも城(定)監督らしいひねりで、♪こがねむしは金持ちだ♪の歌や、エルガーの「愛の挨拶」のオルゴールも城監督の得意技と見たが、脚本は小松公典との共同となっていた。彼女が目覚めるのかどうかわからないまま終わり、その先を見る者の想像に委ねている。
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(V)『の・ようなもの のようなもの』(2016年 杉山泰一) [ヴィデオ]

『の・ようなもの』の35年後の話。冒頭、長椅子でじゃれ合っている男女に主人公が割り込んでいく『の・ようなもの』と同じ始まり。
物語は、師匠が亡くなって落語家を廃業した志んととを13回忌記念高座に引っ張り出すというもので、前作は落語自体には焦点を当てていなかったが、こちらは中心主題に据えており、落語映画と言ってよい。
志しんととと志んでんの二人の落語を交互に見せるクライマックス--田の字に書き足して魚とするのが秀逸--が感動的だった以上に、谷中のアパートに暮らす志んととが、近所の老人たちの生活を助け、主人公が修業よろしくそれをせっせと手伝う姿が、町の風景--ヒマラヤ杉!--とともに、落語の世界がまだ健在であることを見せてくれて、心に沁みた。
音楽の付け方にもう少し節度を持つべきと見ていたら、映画が終わるか終わらないうちに、80年代風の歌が流れて来て、何だろうと思ったら尾藤イサオの歌だった。
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(V)『の・ようなもの』(1981年 森田芳光) [ヴィデオ]

この作品は、語り口と、一風変わった物語世界が斬新だったため大いに注目されたのだろう。
男湯に女が裸で登場するという奇を衒いすぎの場面はあったが、カットバックで先の時制の姿を見せる手法は確かに新しい。(歩きながらボソボソ言うところはラップに聞こえたし。)
落語の修業をしている若い弟子たちという古い主題を選びながら、女の娘を追いかける彼らは当世の若者。ソープ嬢を普通の女性として描き、彼女に対する主人公の態度も友だちに対するよう。
恋愛映画の・ようなものでありながら、見送りにも行かないで終わる。
編集も含めて、自分がいいと思うやり方でやった映画の・ようなものという意図か。
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(V)『イディオッツ』(1998年 ラース・フォン・トリアー) [ヴィデオ]

冒頭、女性がひとりレストランで食事をしようと座ったところ、そこに居合わせた知的障がいの男が暴れ周囲に迷惑をかけていたので、彼女が助けて一緒にその場を出ることになる。ところがそれはタダ飯を食べるための演技だったとわかり吃驚。
障がい者のふりをして集団で暮らす若者たちが引き起こすさまざまな挿話を描いていく。若者たちのやっていることは、昨今の飲食店テロのような悪ふざけとしか見えない。ときおり挿入される彼らひとりひとりへのインタヴュウ映像は、悪ふざけがバレて、聴き取り調査が行われたようだったが、説明はなし。
題名に「ドグマ2」とあったが、撮影方法--手持ちカメラをフォン・トリアー監督自身が回しているようだ--、音楽なし、語り口だけでなく、破廉恥な内容も含めてのドグマ運動なのだろう。
冒頭の女性の心の傷が慰められたように、たとえ悪ふざけの集団でも何か役立つものはあるのだという解釈で十分ではないか。
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(V)『奇跡の海』(1996年 ラース・フォン・トリアー) [ヴィデオ]

舞台はデンマークかと思ったら、英国で、油田に出稼ぎにいく人たちが多い厳格なキリスト教の村が舞台。
神への信仰、主人公の極憑りつかれたような行動、章仕立て--7章+終章--となっているところ、各章の始めに流れる古いロック音楽--コーエンの「スザンヌ」があった--手持ちカメラ撮影など、フォン・トリアー印は、90年代半ばには出来上がっていたことがわかる。
極端で思い込みの激しい主人公も、男が彼女を愛しているが故に、ひとりよがりの暴走とは見えない。
危篤だった男の方でなく、彼女があまりにあっさりと死んでしまったので、最後は生き返って来ても驚かない心構えでいたところ、やさしい奇跡でまとめせみせた。これはフォン・トリアー監督の本意か、はたまた周囲への遠慮であろうか。
背後に流れる音楽は、サンサーンスの白鳥を鍵盤ハーモニカで演奏したような演奏のみ。
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(V)『続おんな番外地』(1966年 小西通雄) [ヴィデオ]

前作では、刑務所の場所を特定する必要はなかったが、今作は話の都合上必要となって、栃木刑務所としている。そこを三年で出所した主人公--いくら模範囚となっても10年の刑なのに--のシャバでの生活が描かれる。
これは見ていて気が滅入ってくる映画。彼女が懸命に美容師として働いているのに、チンピラの男が登場して、何度も職を失う。その男のしつこさたるや。刑務所の友だちに頼まれたから男を訪ねただけで、彼女にまったく落ち度がないからこそ余計見ていて気分が悪くなる。途中、「別荘」の友だちに遭え、ほっとしたのもつかの間、男を撃退する手立てはない。
最後は別荘に戻るしかないのかと見ていたら、それだけは回避される流れとなったのだが、せっかくの情夫も自分の都合しか考えておらず、登場する男はことごとく女性の敵であった。
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