SSブログ

(V)『おんな番外地 鎖の牝犬』(1965年 村山新治) [ヴィデオ]

主人公が女子刑務所に収監されるところから始まり、途中、彼女が犯罪を犯した経緯が挿入されるも、最後まで舞台は檻の中。
刑務所の中で突っ張り、管理部長に正々堂々と物を言う彼女は小気味いいが、それならなぜ男に簡単に騙されたという感じにもなってくる。
男たちに意趣返しができない今、刑務所の中でするという流れもあったろうが、そうではなく、管理部長や看守は女性として主人公と気持ちが通いあうところもあるのだという描き方は面白い。
主人公に好意を持つ「ちんたら」--同性愛のこと--の女を演ずる原知佐子が出色。彼女がいなくなったのと替わって入所してくる若水ヤエ子の「スイムスイム」踊りも見どころ。
nice!(0)  コメント(0) 

(V)『弥次㐂多道中双六』(1958年 千葉泰樹) [ヴィデオ]

京都までの後半の旅を描いた同じ年の12月に公開された続編。もっと続編らしい題名にした方がよかったような。(なぜこちらは略字?)
一旦、江戸へ戻りかけた女房二人が、四日市を目指す十返舎一九と出遭って、弥次喜多の後から京を目指す旅にでる。
道中の挿話でつなぐ形は同じだが、途中弥次さんが男めかけになり二人がバラバラになるのは旅の趣旨から外れすぎているような。
父親の借金のかたに拉致された娘を助けるべく、富山の薬売りと別嬪酒場を営む座長ののり平が乗り出し、幡随院長兵衛よろしく、借金を帳消しにして大暴れ。彌次さんが、下駄で歌舞伎の拍子木よろしく音を立てながら、立ち回りに躍動感をつける場面は、ノリがよく軽快で楽しい。
今作は、ミュージカル要素がなかったが、最後は二人が女房と合流して、大勢が祇園踊りを踊って明るく締めた。
nice!(0)  コメント(0) 

(V)『彌次喜多道中記』(1958年 千葉泰樹) [ヴィデオ]

十返舎一九が「東海道中膝栗毛」を面白くするため、彌次郎兵衛と喜多八に路銀を渡して、京都までの旅をさせる設定。
多くの有名俳優が顔見世的に登場する楽しい内容は、正月映画の雰囲気だが、黄金週間向け作品だった。なんといっても、三船敏郎と、池部良--仇討ちの旅をしている侍兄弟--に、安来節を踊らせるというぜいたくなお笑いに吃驚。
道々での挿話をつないでいくが、二人とも女に目がなく、失敗はたいてい女絡みとなる。女形に扮したのり平が座長を務める旅回り一座に出演して糊口を凌ぐという可笑しい場面もあった。最後は、幕府の役人が贋金を作っていた似非宗教の親玉を逮捕するのに二人が協力するという事件でうまく話しがまとまったが、まだ駿府あたりでおしまいとなる。
ミュージカルを指向していたところもあるようで、いろいろな人が歌う--飴屋に扮した宝田明の歌など--場面があって、これまた楽しい。
nice!(0)  コメント(0) 

(V)『渇水』(2023年 高橋正弥) [ヴィデオ]

前橋が舞台。夏、雨が降らず、取水制限が出ている中で、水道料金を滞納している人たちに、停水執行をして回る水道局員が主人公。
家族とうまくいかず、妻が子どもを連れて実家に帰ってしまった主人公の「公」の部分が、母親が家を出てしまった幼い姉妹と触れ合うことで、どう影響を受けて「私」の部分を回復するかという話。
姉妹の部分は、貧困が主題となっていて、姉がやむにやまれず万引きをしてしまうところには、胸を締め付けられた。
主人公が突如「テロ」に走るところは、極端ではあったが、それまでの鬱屈した流れを断ち切るかのようなクライマックスは、このくらいやってもいいだろう。
匂いで男を嗅ぎ分ける、ある種人生の達人のような母親が、姿を消したまま出てこないのは、多少違和感あり。
電気ギターを使った音楽は、大友良英かと思ったら、何と向井秀徳だった。最後には、ギターを多重録音して伴奏とする「渇水」なる主題歌まで、聴かせてくれた。
nice!(0)  コメント(0) 

(映画)『恐喝(きょうかつ)』(1963年 渡邊祐介) [映画]

この映画が公開された年は、ヤクザ映画元年で、まだ一般的ではなかった。この作品でも、ヤクザという言葉は使っていない--本人は「不動産屋の幹部社員」と称していた--けれど、この主人公はまぎれもなくヤクザだ。それは禁欲的ということではなく、自らを半端ものと自覚して、わざと露悪的に振舞うことであり、また貧乏な出自の主人公は、優雅な暮らしをしたいという野心を人一倍持っている。
彼が、身の隠し場所を出奔した故郷--江東区の大島あたりでロケをしたよう--に求めたところがよく出来ていて、彼はそこに暮らしていたころの記憶と、周囲の友だちによって、自らの立ち位置を再認識することになる。
「大きな仕事はひとりでする」主義の主人公と、彼を慕う弟分が、親分に命じられて彼を殺そうとして犬死してしまう場面に続き、彼が孤軍奮闘して殺されてしまうまで、一匹狼の哀愁が漂っていた。石炭の山の上からずり落ちて来る場面の鮮烈さが印象的。
キャバレー場面で、潮健児がひとりドラムスを叩いている場面があったが、実際にドラマーだったのだろうか。
nice!(0)  コメント(0) 

(V)『黄金バット』(1966年 佐藤肇) [ヴィデオ]

最初に流れる主題歌がお馴染みの歌と思ったら、この映画で初披露された後、TV放映で使われたとのこと。この曲、間奏部分の旋律も含めて、とてもよくできた曲だが、作曲はこの作品の音楽を担当している菊池俊輔ではなく、田中正史だった。
ナゾーが惑星イカロスを地球に衝突させようとする。日本アルプスにある国連秘密機関パール研究所が、惑星を破壊する光線砲を開発したところ、ナゾーが邪魔をしてきて、黄金バットが助太刀に現れるという話。
話が単純なので、流れに乗って楽しく見られる。冒頭イカロスを発見した少年がせっかく隊員になったのに、あまり出番がなかったけれど。また、ナゾーが隊員をひとりずつ突き落とすところは、ちょっと吃驚。
肝心の黄金バットは、パトンで敵を倒すだけなのだが、せっかく金色を売り物にしているのだが、白黒ではなく色彩映画にしてほしかった。
nice!(0)  コメント(0) 

(映画)『さよならほやマン』(2023年 庄司輝秋) [映画]

キワモノか、地方映画かと思ったらさにあらず。庄司監督は石巻の出身とのことで、東日本大震災に今でも苦しんでいる人たちがいることをどうしても描きたかったようだ。劇中では、多部島と架空の場所を舞台にしているが、ロケは石巻の近くにある網地島とあった。
ホヤ獲り漁師の兄と、震災で精神を病んでしまった弟の二人暮らしの家に、東京にいられなくなった女性漫画家が強引に押しかける。借金で首の回らない兄が、家を買いたいと札束を見せられても、積極的に動かないのは変だなと見ていたら、震災で海に消えた両親の帰りをずっと待っていたのと、海で獲れたものは一切口にせず、それで兄弟ともカップ麺ばかり食べていたことがわかってくる。
兄弟及び漫画家が、互いに傷を癒して回復していく流れは既定路線だが、庄司監督は、ゴツゴツしたものをちりばめ、安易な結末へもっていかない。精神の均衡が崩れてしまったのは、弟だけでなく、兄もなのだ。島から見る美しい海の風景と、そこに暮らす人々の気骨ある言動に心打たれる。
ほやマンの動画を撮って金を稼ぐという発想が突然出てくるところは、ちょっと短絡だったが、ほやマン自体父親が考案したもので、動画の挿話が劇中で浮いてはいなかった。
最後、一緒に暮らすといっていた漫画家が東京へ帰ってしまったというのが意外で、手紙の内容が「さよならほやマン」だったとしたら、もう戻って来ないとなるのだが。。
最小限つけられていた音楽は大友良英。最後にボ・ガンボスの「あこがれの地へ」が流れるのは、庄司監督の趣味と思われるが、最高の選曲!
nice!(0)  コメント(0) 

(映画)『かづゑ的』(2023年 熊谷博子) [映画]

長島愛生園に暮らす、宮﨑かづゑさんと夫の姿を2014年ごろから2020年まで撮影したドキュメンタリー。
愛生園については、さまざまな機会に耳にしてきたが、長島という場所が瀬戸内海に浮かぶ島だったとはこの作品で初めて知った。患者を乗せた船が着いた桟橋の遺構を見て、本当に厳しく隔離された場所だったことがわかる。使われていない昔の建物などを含めて、これらは世界遺産として保全すべき施設だろう。
今でも園に留まる人たちは、らい病--かづゑさんは、ハンセン博士が発見するよりずっと前からあった病気だからという理由でハンセン病と言わない--は治っているが、後遺症があったり、かづゑさんのように80年も暮らして他に行く理由がないから。
撮影されることを了承したのだから、自分のすべてを撮ってほしいというかづゑさんは、カメラの前でよく涙をこぼす。その涙は熊谷監督の優しい存在があればこそなのだが、普通の人の何倍もの涙の重みを、見る者はひしひしと感じる。
映画が進むにつれ、明瞭に話す、頭脳明晰なかづゑさんの剽軽な部分も見えてきて、さらに夫婦で暮らしを立てていく『人生フルーツ』の二人のようにも感じられて来た。『人生フルーツ』のごとく、夫は亡くなってしまい、おそらく疫病下であったため、骨壺となって初めて対面したと思われる哀しい場面が最後にある。
しかし、上映後の監督の話で、かづゑさんはその後も元気で、最近は水彩画に取り組んでいるという話を聞き、「かづゑさん的」人生を謳歌している姿が目に浮かび、映画の余韻がさらに増幅した。
かづゑさんの著書をぜひ読んでみたい。
nice!(0)  コメント(0) 

(V)『故郷』(1937年 伊丹万作) [ヴィデオ]

冒頭、少年が姉が帰って来ると大喜びしている。舞台は、信州のアルプスのふもとの村。少年の家は酒屋で、姉は東京の女学校を同じ村の金持ちの娘とともに卒業して戻って来たのだ。家には母親と長男が居て、長男が懸命に働いて彼女の学費を出したことがわかる。
物語は、東京で先進的な思想に触れてきた娘が、田舎の封建的な考え方に馴染めず、特に兄との関係が悪くなっていくというもの。どちらかと言えば、娘がわがままに描かれていて、コツコツと働くことの尊さを強調する内容になっているが、この時代、浮ついた都会の若者批判の風潮があったのだろうか。
その中で、自ら正しいと思ったことをなすといった風情の少年と、校長の金持ちの生徒優遇策に反旗を翻して学校を辞めてしまう教師の存在が、話に膨らみを持たせる。
伊丹監督は、溶暗を多用して、これらの人物の様子を交互に活写する。
とうとう家を出てしまった娘が、その間何をしていたのか描かれない--日めくりがどんどんめくれて時の流れを表すのは無声映画の名残--が、働くことの大変さを知って、家に戻って来るという結末。
2年ぐらいの時が経っていたはずだが、少年が前と同じだったのが、少し気になった。
nice!(0)  コメント(0) 

(V)『子連れ殺人拳』(1976年 山口和彦) [ヴィデオ]

『浪曲子守唄』のように、主人公に子どもがいるのかと思いきや、ヤクザに雇われて金を稼ぐ日本刀の達人の方だった。主人公も同じように、ヤクザの組に得意の拳法で自分を売り込む。
敵対している二人は、もともと兄弟分で、刑務所に入った親分が隠した5億円の麻薬をそれぞれが手に入れようとしている。主人公は二人の間でうまく立ち回って、隠してあった麻薬を発見する。
そこで、日本刀使いと決闘して相手を倒すのだが、残した子どもを託されるところは、古い任侠ものの展開。実の母親を探し出して、子を引き取ってもらうおうとするが、彼女もすでに家庭を持っていて、それはできない相談。。
結局、子どもは彼が面倒を見ることになって、最後は題名どおりの展開となるのだが、吃驚したのは、収監されている親分が取り巻き連中とともに突如脱獄してきて、主人公と対決するところ。クライマックスを盛り上げようという意図だろう。。
ブルース・リーは言わずもがなだが、「子連れ狼」の影響も有り。
nice!(0)  コメント(0)