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(V)『女王陛下のお気に入り』(2018年 ヨルゴス・ランティモス) [ヴィデオ]

どこかで見たことがあるような話だったと思ったら、江戸時代の大奥での女たちの権力闘争だ。この話は、殿様に相当する人が女性ではあるが、体の魅力で籠絡するのは変わらない。
大奥ものの場合は、女同士表向きは節度を持って対峙し、裏で権謀術数をめぐらす形式となるが、この映画は、赤裸々で、性に関することも平気で口にする。なので、女王の寵愛を受けていた侍女が衝撃をうけるのも--心臓の鼓動のような音楽が前の場面からずっと鳴っていた--女王と新人が裸で寝ているところを見るという直截的なものとなる。王宮という場であれば、奥ゆかしさというものが、もう少しあっても。
映画の舞台は、ほぼ王宮内に限られ、広角レンズを多用し、広さや豪勢さが強調される。フランスと戦争している場面などが一切登場しないことで、庶民の人生--最後に出てきたたくさんのウサギはそれを表しているのだろう--を左右する密室での決定が、偉い人たちの気まぐれで決まる現実を見せつけられる。
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(V)『1987、ある闘いの真実』(2017年 チャン・ジュナン) [ヴィデオ]

題名が表しているように、1987年1月の警察による--赤狩りを専門とする南営洞と呼ばれる組織--学生リンチ致死が明るみに出たことをきっかけとして、学生たちのデモが大きくなり、民主抗争にまで発展する半年間の状況が描かれている。日付と場所を字幕で見せる実録ものの手法。
ひとりの人物に焦点をあてるのではなく、それぞれの立場で正しいと思ったことを貫く何人かの人々が登場し、見ているものは、政権からの圧力に悔しい思いをし、厳しい監視にハラハラしながら、彼らを応援することになる。
中でも砂塚秀夫に似ていた看守がよかった。捕まって拷問を受けても口を割らなかったが、家族の写真を見せられて、重要人物の場所をとうとう教えてしまった彼の気持ちは、痛いほどわかる。
事実を並べるだけでなく、若い二人の気持ちの通い合いも入れ込む娯楽性も優れている。運動靴を小道具として叙情を出す。
南営洞の親分の強烈なところが政権の巨大な力を象徴しているが、脱北者である彼にも自分が貫くべきことがあるのだという意志は見て取れた。
翌年のソウルオリンピックを成功させるためという当時の状況は、今の日本のことを考えさせられる。
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(V)『吠える犬は噛まない』(2000年 ポン・ジュノ) [ヴィデオ]

原題は「フランダースの犬」だそうで、カラオケで歌われる歌は、日本のアニメの主題歌。このアニメと比較し、ソウルの団地の人と犬をおもしろおかしく描こうというのが意図のようだ。禁止されているのに団地の部屋で犬を飼う人、鳴き声がうるさいからと犬を殺してしまう人、犬をたべようとする人--これは韓国ならでは--、皆自分勝手な人たち。
講師から教授に出世したい男と、団地の管理事務所に勤める女というまったく関係のない二人を交錯させていく進め方も面白いが、小さいネタが可笑しかった。ボイラー・キムの話、おばあさんの遺言である切干大根、トイレ紙で距離を測るなど。
犬を助ける場面のような見所となるところでは、スローモーションを使っており、すでにポン・ジュノ印が刻まれていた。
面白かったけれど、主人公が嫌った犬たちは非道い目に遭ったのに、自分の家の犬は救われ、さらに出世もかなうというのは、何やら理不尽な気がしないでもない。
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(映画)『ひとり妻 熟れた旅路の果てに』(2020年 竹洞哲也) [映画]

一か月という短さで竹洞監督の新作が見られるとは。
青森での撮影は、前作と一緒に行ったと思われるが、こちらは十和田湖畔ではなく、海沿いの町。二年前の社内旅行時の挿話と現在を交互に見せ、三人の女性それぞれの微妙な気持ちの揺らぎ--外見からは窺いしれない悩み--を丁寧に描くのは深澤脚本らしさ。
同年代という設定の三人を演じる女優がいずれも素晴らしく、その点では大満足。しかしながら、三人それぞれ脳内音声で状況を説明する手法は安易ではないか。同じ場面を違う人から見るという効果はあったけれど。おまけに主人公の夫の脳内音声まであった。三人の演技と竹洞の演出があれば、それなしでも十分描写できたのではないか。
それぞれの考え方がわかってしまうと、主人公が相対的に嫌な性格に見えてしまうのも、作者の意図するところではなかったのでは。
最後の場面、夫婦二人が砂浜を歩いていく後ろ姿がよかったけれど、大きいカバンを忘れたままなんですけど。。
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(映画)『猥褻奇談 生娘の白い太股』(2006年 深町章) [映画]

元の題名『熟母・娘 乱交』。ヴィデオの題名『怪奇猥談 牡丹燈籠』。
この作品は、ヴィデオの題名が内容そのもので、怪談牡丹灯籠を下敷きにしている。(だから冒頭、男二人がのんきに釣りをしているのだろう。)母娘が夜歩いてくる場面で、曾根監督の『性談 牡丹燈籠』を思い出した。
二人はすでに死んでいて、夜な夜な娘が気に入った若社長の家を訪れ、社長と娘が交わる。それを部下が覗いてみたら相手が白骨だった。それで家の玄関にお札を貼って、家に入れないようにするのだが。。
社長のためを思う侍従のような役割の男が、母親から恨まれ、四谷怪談のように幻覚を見て妻を殺してしまうところは面白かった。しかし、そのあと彼がどうなったかまで見せてほしいところ。
主である幽霊と社長の交わりより、侍従と妻の交わりのほうがずっと官能的。(里見瑤子の艶技によるところ大)
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(B)『「三島由紀夫」とはなにものだったのか』(橋本治著 新潮文庫) [本]

三島の本は、昔『仮面の告白』を読んだだけなので、この本も縁がないだろうと思っていたのだが。。
著者も三島について思い入れがあるわけではないので、純粋に作品に向かい合った結果、このような興味深い分析ができたのだ。著者の切り口は明確。
「私は、三島由紀夫の作品のいくつかを、「幻想小説と化した三島由紀夫の私小説」だと思っている。その物語の主人公は、(中略)三島由紀夫自身なのだ。」
この観点から、『仮面の告白』から、『禁色』、『豊饒の海』へと至る小説において、三島が何を考えていたのか、書こうとしたのかを考察する。言及されている作品が多くないので、他の作品群を加えれば当然違った見方があるのだろうが、三島作品についてこんな切り口で論じたものは他にあるのだろうか。まさに画期的。
題名のカッコがついている三島由紀夫は、本人のことではなく、小説に書かれている三島由紀夫のことなのだ。
三島作品を少しは読んでみようという気になった。
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(V)『太平洋のGメン』(1962年 石井輝男) [ヴィデオ]

ニュー東映印だったが、カラー作品で大作の風格。舞台も対馬から神戸、横浜へと移動する。
冒頭釣りをしていて変なものを釣り上げる主人公の素性が最後までわからない。ヤクザ崩れのようだが、なぜあんなところで釣りをしていたのか。横取りされたブツ--密輸宝石らしい--をなぜ執拗に追いかけるのか。さらに、対馬から勝手に主人公の後を追いかけてくるバアの女の行動も理由がよくわからない。(女とともに移動していくのは「地帯シリーズ」の趣き。)それに加えて、神出鬼没の千恵蔵御大は何者か、などという設定に疑問をもっていたら、この映画には乗れなくなってしまう。主人公と女の積極的な性格と行動が物語を推進する力なのだ。
とはいいつつも、そこに対馬の海賊と思しき若者たちが割り込んでくるのは、話を詰め込みすぎでわかりにくく、彼らの存在は不要だったのでは。その海賊たちも途中で撃退され、最後は密輸組織がGメンによって無事逮捕されるのであった。
ドラムスだけの音など、河辺公一のジャズ音楽がよかった。
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(映画)『拳銃無宿 脱獄のブルース』(1965年 森永健次郎) [映画]

戦災孤児だった二人がヤクザの親分に育てられ、ひとりは建設業を、もうひとりはバア経営を任されている。この二人は、ひとりの人間が昼と夜の二つに分かれたような造形となっていて、仲たがいすることなく友情は最後まで続くので、一人の人物と見たほうがよい。
もうひとつの主役は「拳銃」。主人公は有能な拳銃使いながら、正業で生きていこうと拳銃から離れることを決めている。周囲の人たちから持たされても、ことごとく海に投げ捨ててしまう。しかし、それは離れられない恋人のようで、最後には拳銃を手にして戦い、そして離れないことを決めて終わるのだ。この作品でも主人公の傍にいる松原智恵子は見向きもされず、拳銃にその座を奪われていた。。
物語は、普通であれば育ての親が殺され、正業についた二人が復讐するという流れになりそうだが、その育ての親--菅井一郎--が一番腹黒い奴だったという展開が変わっていて面白かった。
そして、渡辺宙明が本の中でも語っていたこの映画の音楽。白黒画面の粋なタイトルから冒頭のノワールな雰囲気を出すジャズ音楽。クライマックスに向かう場面ではフリージャズと作品のハードボイルド色を強めていた。
それにしても、ラジコンを使って、どのように刑務所から脱獄したのだろう。『夕陽の丘』の冒頭に出てきた不吉な感じの家の絵が、この映画でも悪い奴らが集う部屋の壁にかかっていた。
加藤登紀子がキャバレーで歌う場面があったが、シャンソン歌手として売り出していたようだ。
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(L)AmamiAynu@伝承ホール(01/31/2020) [ライヴ]

奄美大島の唄者 朝崎郁恵とアイヌの歌うたい三人の合体したグループがアマミアイヌ。朝崎のライヴは随分ご無沙汰だし、OKIとアイヌの歌は一度生で聴きたいと思っていたので、千載一遇の機会。

最初は、OKIのトンコリの演奏と歌で始まり、カピウ&アパッポという阿寒の姉妹グループとレクポ--OKIの配偶者らしい--という旭川の歌手によるアイヌの歌のステージ。
OKIも含めて皆が着ているアイヌの民族衣装は、絵に描いたようというか、正面から二次元的に眺めるべき意匠のように見える。歌もそれと同じで、感情を込めて立体的にするのではなく、繰り返しの妙、言葉の響きの妙を楽しむような音楽。その点で、カピウ&アパッポの交互に歌う掛け合いが特によかった。
OKIによれば、アイヌでは先人そっくりに歌うのではなく、自分独自のものを入れないと歌手として認められないのだそう。
OKIはトンコリをずっと弾いているわけではなく、半分くらいの曲は、打楽器のようにたたいているだけで、アカペラで聴かせる形式。

五曲30分の演奏ののち、いよいよ朝崎登場。奄美とアイヌが合体したといっても、一緒に同じ歌を歌うわけではなく、それぞれの民謡を一つの曲の中で歌い合うという画期的な形式。OKIはもともと亡くなった安東ウメ子と朝崎でこのような企画をやりたかったようで、昨年出たアルバムの中にも、安東の歌をベースにし、朝崎の歌を乗せた曲が収録されていた。
そのうちのひとつ「マキャ マキャ ウポポ」のカラオケがかかり、安東の歌に加え、朝崎が自分のパートとして「豊年節」を歌い始める。OKIはアイヌと奄美の歌が似ていると何度も言っていたが、朝崎の地の底から響くようなリズムが感じられない歌はあまり似ているように感じなかった。安東の声質とは似たものがあるとは思ったが。
リズムが感じられないと言ったが、その歌がアイヌの歌のリズムに見事に乗るところが素晴らしい。「ええうみ」が歌わる曲もあって、この曲は奄美でも一番古い歌で、旧暦8月15日、16日の夜、満月を祝うお祭りで歌われる歌であるというのを初めて知った。朝崎を何度か見たのは20年近くも前になると思うが、全然変わっておらず、仙人のように見えた。
アルバムに収録されていた八曲すべて演奏されたが、中でも「チェジュリハマのカモメ」は、アイヌの歌の力で浜千鳥が飛び立ったという爽快感があった。

アンコールでは、アイヌ勢と朝崎がそれぞれの祭りの歌のようなものを掛け合いで歌い、これこそがまさに歌合戦で、相乗効果が出ていて一番の見ものであった。
時々利用する渋谷の図書館の上に、このような施設があるとは知らなかった。伝承ホールという名の通り、ステージが低めで能や狂言などの伝統芸能用の設計のようで、客席の両側に桟敷席もあった。天井が高く音響的にも贅沢なつくりで、この日は内田直之がミキシングと書かれていたのでさらに良い音で聴けたということになる。それも含め、貴重なものを見聴かせてもらった。
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