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(V)『絶頂家族 愛人だらけ』(2015年 加藤義一) [ヴィデオ]

T.S.エリオットの詩が出てきたり、田舎を象徴するものが、ウシガエルの鳴き声といったあたり、脚本の後藤大輔の趣味が出ている。(80年代の映画ネタも。)
父、母、娘、三人とも不倫している話を、喜劇的に進め、加藤監督が緩い感じで演出する。演じる三人ともがそれに応えていい味をだしているという歯車が見事にかみ合った作品。
母と娘が同じ子種を飲むというのには笑った。
三人以外の役者も完璧だが、先日見た東映製作の人権教育ヴィデオに、那波隆史がでていたのを思い出してひとりほくそ笑む。
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(V)『ズーム・アップ ビニール本の女』(1981年 菅野隆) [ヴィデオ]

脚本は桂千穂なれど、石井隆の名美もののような話だった。主人公の名前もナミだったし。
彼女は、ビニール本の中から出てきたような虚の女。一応、二年前に強姦された--自尊心を傷つけられたということらしい--復讐という理由はあるものの、カメラマンである男の前にモデルとして登場し、最後は自分が辱められた場所で、男を嬲り、翻弄する。(お小水を男にかけるのを執拗に見せていた。)
対照的に、実の女として、カメラマンの助手の男と付き合っている女が居る。こちらはいたって普通の男女の交わり。並行的な描写が狙いだったのだろうが、虚と実がぶつかり合うところも見たかった。
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(V)『侠花列伝 襲名賭博』(1969年 小澤啓一) [ヴィデオ]

「横山実カメラマンと照明の藤林甲のコンビは、日本一女を美しく撮る技術を持っていた」とは小澤監督の弁。確かに、前半芸者時代の主人公を、ソフトフォーカスで撮り、同じ画面に入っている男との対照が見て取れた。(後半、組長となってからは、凛々しさを強調するため、撮り方を変えているように見えた。)
また、小澤監督が画作りに力を注いでいる場面は多数あって、例えば汽車が走って行く手間の草原を男が数人のヤクザに追われている。またそれを汽車から主人公が見ている場面を彼女の後ろから撮っている画や、女同士の花札勝負の場面では、片や障子、片や屏風画を背景として、壺を振るところを正面から捉える様式美など。最後の討ち入り場面では、大量の雨を降らせ、すべて相手をたたき斬ったあと、二人の男が相次いで水たまりに斃れる徹底ぶり。
芸者だった主人公がヤクザの組を継いだり、足を洗った男が躊躇わずドスを持ったりというあたりに説得力がなかったのは脚本のせいとしよう。
この頃芸名を変えたばかりの梶芽衣子が、この作品ではすでに70年代の活躍を予見するように、貫禄があったのが眼を惹いた。
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(B)『完本 チャンバラ時代劇講座』(橋本治著 徳間書店刊) [本]

「忠臣蔵」の劇化を、まず江戸時代の『仮名手本忠臣蔵』から始め、我々が親しんでいる話は歴史物語として明治時代に出来たもので、それは時代劇が、立派な人物を描いて理想像を示すという時代の要請によって生まれたものの一つの例となる。
しかし、現実の世界が理想像を必要としなくなったときに、時代劇は終焉を迎え、「忠臣蔵」にとっては、それが昭和39年のNHK大河ドラマの『赤穂浪士』だった--これが「忠臣蔵」の決定版--と著者は言う。ヴィデオが残っていない現在、続く『太閤記』とともに、実際に見ていた著者の証言は貴重。
というように、この本は時代劇から日本人の意識の変遷を論じていて、昭和61年出版のこの本からすでに、著者の視点は定まっていた。時代劇の本なのに、なぜか『青春残酷物語』(昭和35年)まで登場し、「明白に日本の近代の分水嶺となる作品だった。」と書く。
男女の恋愛や、テレヴィなど、時代劇から離れて突き進む著者の思考の拡張は、この程度の量--二段組400頁--では、まだまだ足りない。
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(V)『フロリダ・プロジェクト 真夏の魔法』(2017年 ショーン・ベイカー) [ヴィデオ]

先日の講演会で、丸山健二が抑制の効いた描写例として挙げて絶賛していた映画。それまで聞いたこともなかった作品で、丸山がこんな作品を見ているのかと吃驚した。
確かに、説明的な会話や描写がない。隣接する二軒のモーテルを遊び場にしている子供たちは、兄妹かと見ていたら、そこを住居にしている別の家族の子どもたちで、皆片親。この安モーテルは、働き口もままならない人たちが住居としていることがわかってきて、さらに近くにディズニーワールド--フロリダという題名なので--があるらしい、といったように次第に描かれている場所や人々ことがわかってくる仕掛け。(娘の友だちの誕生日を祝うため、花火がよく見える場所に連れていくが、あれもディズニーの花火なのだろう。)
母親が売春をしている場面を見せないといった省略だけでなく、ベイカー監督は、ひとつひとつの挿話に余韻を持たせず、子どもたちが遊んでいる姿や、大人たちが働いている姿を次々と挿入することで、流れを持たせていく。
子どもたちはこ憎らしく、屈託がない。太陽の光の下で、モーテルの派手な壁の色は高級ホテルと変わらないように見える。そのホテルに堂々と入って行って、食べた朝食は、母親にとって娘との別れの食事のつもりだったのだろう。そして、その子を泣かせるのは、やはり母親が悪いのだろうか。
母親の悪態が極まって、ガラス戸に生理ナプキンを貼り付ける場面は、これぞ米国人と震えた!
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(映画)『真夜中の顔』(1958年 宇野重吉) [映画]

冒頭、天井で廻っている扇風機のアップからキャメラが下を向くと、ヌード踊り子--当時の--がギター演奏にあわせて踊っている様子が写される。(音楽にはコンガも入っていたが。)
最初から、緊張感漂う語り口のこの作品は、バアに出入りする人々の一夜の様子を描くという『たそがれ酒場』的な設定だが、宇野重吉監督は、さすがに映画表現を意識していて、新聞社の社長が愛人と寝ているところを電話やタバコを持つ手だけでみせる--社長の声は宇野本人--とか、最後女がパトカーを見送る場面など、決して演劇的なワンセットドラマにこだわっているわけではない。
最初にヒロインが死んでしまうので驚くが、宇野人脈というのか、バアに集うさまざまな職業の人たち--政治家の卵、政界の黒幕、役人、新聞記者、編集長、ヤクザ、女給など--を演じる役者陣が適材適所という感じで、中でも冷静なヤクザを演じる梅野泰靖がいい味を出していた。(手下の芦田伸介や内藤武敏は小物扱い。)唯一、主役格の三國は、殴られても抵抗できず、もっとひ弱な感じの人がよかったのではというくらい。
円く収まるかに思われた流れが、全体を支配する役割の政治家の卵が殺されるところで、突如変わる。ここの変わり目は、もっとじっくり情感をこめるように見せてもよかったのではないか。
鳴り響くジャズ音楽が雰囲気を盛り上げていた。
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(V)『悪の華』(1961年 井上和男) [ヴィデオ]

チンピラ二人がさらってきた女は、大金持ちの娘だった。かくまってくれるよう頼んだバアのマダムが曲者で、身代金をせしめたのち、殺し屋兄弟にチンピラ二人を殺させる。(何と佐藤慶がチンピラ役)非常な殺し屋である弟が、娘に恋してしまったせいか、神戸まで連れて行ってしまうのだが、それを警察につきとめられ、内輪もめもあり、結局娘以外、悪い奴はみな死んでしまうという極端な展開。(刑事もひとり巻き添えをくう。)
脚本も書いている井上監督は、松竹ヌーヴェル・ヴァーグ作品を意識してか、冷たいハードボイルド世界を志向したのだろう。不気味な殺し屋と、拉致されているだけでセリフがほとんどない娘を中心としたり、運転手を殺す場面を見せないなどの語り口にそれを感じた。
しかしながら、運転手の死体を写したり、舞台を神戸に移すあたりには徹底しきれなかった部分があった。最後山に入るのではあれば、軽井沢で話を展開させた方が、映画の雰囲気としてはよかったろう。
ほとんどセリフもなく、監禁されているだけでは、娘役の桑野みゆきも、魅力を発揮するところがない。唯一、夕焼けを見ながら何か考えている風の顔つきには、悪に魅せられたとでもいうような意図がありそうだったが、殺し屋と心が通じ合ったという描写がなかったので、余韻は残らず。
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(V)『エレキの若大将』(1965年 岩内克己) [ヴィデオ]

若大将の家に出入りする蕎麦屋の出前持ちが寺内タケシで、当初はギターを弾いてみたいと初心者風だったのが、バンドを結成してみたら凄腕になっていた!
ということで、この作品は加山雄三がブルージーンズの一員となって、ホテルのバアやキャバレーで演奏するところが見どころ。もちろんインストバンド。ビートルズの風体を真似たバンド--ジェリー藤尾がメンバー--も登場するが、まだ来日公演の前年という時期では、日本の流行はベンチャーズで、電気ギターが何人もいる形が主流だったことがわかって興味深かった。
電気ギターに対抗して、若大将の祖母が三味線を弾くというのもよかった。祖母役の飯田蝶子のネコ踊りは、エンケンのようだった。(エンケンが化け猫踊りのまねをしていたというのが正解かもしれないが。)
若大将がまだ日光に居るのに、アメラグ--アメフトとは呼ばれていない--の試合が始まってしまいどうするのかとみていたら、ヘリコプターで到着するというアイドルのような扱いに吃驚。
ブルージーンズが出ているということで、内田裕也も勝ち抜きエレキ合戦の司会者役で登場し、とぼけたしゃべりを見せていた!
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(B)『リアルの追求 映画監督小澤啓一』(小澤啓一著 千葉慶編 ワイズ出版刊) [本]

小澤監督が手掛けた映画およびTVドラマ作品一本一本について丁寧に聴いた本。作品の内容にここまで特化したものは実はあまりない。(個人的には、日活の他の監督などの挿話をもっと聴きたいところではあるが。)
それは、小澤監督の記憶力と誠実さ--他人のことを悪く言うのは避けているふしがある--、加えて小澤作品をよく見た上で話を引き出している千葉慶の手腕によるもの大。小澤監督という切り口から見ると、日活後期のニューアクションがまた違った様相を呈する。
自分で脚本を書くと、演出の時にそれ以上膨らまなくなってしまうから、他人の脚本で映像を膨らませる方がよいものができると言い切る小澤監督は、映像で勝負する。75歳まで切れ目なく仕事を続けていたのは、職人気質と周囲がそれ必要としたからだろう。
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(V)『メアリーの総て』(2017年 ハイファ・アル=マンスール) [ヴィデオ]

この作品は『少女は自転車にのって』を撮ったサウジアラビアの女性監督の第二作であったことを見た後で知った。なるほど、男の身勝手な非道い仕打ちや、主人公が書いた本を結局匿名で出版せざるを得なかった状況など、女性差別を非難する視線がある。
しかし、そのような状況にもめげず傑作をものした彼女を称賛するという話ではない。夫であるシェリーも、「彼女に絶望感を植え付けただけ」などと自己卑下していたが、彼との恋愛が主人公を成長させ、才能の開花に力を与えたことは確かだし、だまって見守る父親の存在もよかった。
何かに憑かれたように執筆する場面には、彼女だけではなく、周囲の人の力が凝縮されたものが作品に宿ったことが見て取れた。
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