SSブログ

(V)『ヤリ頃女子大生 強がりな乳房』(2017年 竹洞哲也) [ヴィデオ]

『いつかのナツ』
ナツという名の主人公が大学の政治サークルに入っているのが面白い。政治信条があるというより、運動サークルと同じようなノリで、人を集めてデモをするのが活動で、中心となる男子学生はいつも雀荘に集っている。
ナツの彼氏はそのうちのひとりなのだが、他の男たちともこっそり体の関係を持っている。彼女は母親と不仲のため家に帰りたくないため、男を求めているようで、そこには愛はない。
同様に、若い男たちは自分の性欲を満たすことに専心している。竹洞監督は、行為の場面を女性中心に撮り、男たちを画面に入れないようにすることで、このすれ違っている関係を表現する。
煮詰まった彼女は最終的にサークルの男たちとの関係にケリをつけて、大学生ではない男と出遭うことで新たな一歩を踏み出すとこで幕となる。
バアでアルバイトしている彼女の友だちが、彼氏を振ったら--「あなたは、わたしのことを好きな自分が好きなだけ」というセリフが秀逸--、いきなり彼女の前で農薬を飲んで死ぬというすごい展開があった。
脚本の当方ボーカル--小松公典--の若者同士の会話の独特さが全開だったが、母親が、幼い息子を亡くしたから精神を病んでしまったというのは、かなり昔の出来事で、ちょっと無理のある設定だった。
nice!(0)  コメント(0) 

(V)『痴漢電車 うごめく指のメロディ』(2008年 竹洞哲也) [ヴィデオ]

メガネで東北弁まるだしの主人公が、控え目な性格を克服して彼氏を得るという成長かつ恋愛物語。電車内の場面は話に関係なく、なくもがなという感じ。
主人公が諦める性格になってしまった経緯--陸上部で云々--や、バアの主人の奥さんが毎日神社通いをしているといった説明は月並みだったが、「いつかいつかのまま」という「いつか病」を克服して、好きな男と結ばれる様が無理なく描かれていた。
彼女の姉と結婚相手の鉄道オタクの、ベッド上の電車に見立てた会話がケッサク。
nice!(0)  コメント(0) 

(映画)『続浪曲子守唄』(1967年 鷹森立一) [映画]

前作で刑務所に入った主人公が出所してくるところから始まる。刑期は一年だったようだが、子どもを訪ねると半年前に引っ越したという。子どもとは祭りの場ですぐ会えるのだが、面倒を見てくれていた娘がどこへ行ったかわからず、主人公はテキ屋になって娘を探すことにする。
それで北の町で祭りの場をしきるやくざ同士の争いに巻き込まれるのだが、女郎屋に売られた娘ともそこで再会することになる。この作品は、主題が父と子であるため、主人公と子どもとの交流場面をたっぷり見せ--討ち入りに行くまえの雪合戦が泣かせる--、主人公と女性たちの間には何も起こらない。
どこでロケしたのか知らないが、北の町の雪景色が映画に情感を出す。
弱小の組の番頭役をアラカンが演じていて、見せ場がないまま終わるのかと思いきや、主人公の単独討ち入り場面に助っ人として現れる。ここでアラカンが死ぬ展開かと見ていたら、傷を負ったが無事生き残り、相手方の殺し屋が彼の息子だったという意外な展開。ここでも父子という主題を出したかったのだろう。その息子が犠牲となって、相手方は全滅する。
番頭が罪をひとりで背負ったはずなのに、主人公が子どもを預ける行為がよくわからなかったが、結局、子どもが追いかけて来て連れて行くという、最後にもう一回親子の情を見せるダメ押しがあった。
nice!(0)  コメント(0) 

(V)『北方に鐘が鳴る』(1943年 大曾根辰夫) [ヴィデオ]

明治維新後の屯田兵に材をとった話。屯田兵に関する知識を持たないが、この映画では維新で失職した武士たちを政府が北海道を開拓するために派遣したとなっている。そこに江戸時代まであった仇討ちを盛り込み、さらにはアイヌ民族も登場させる。
主人公兄弟は、新発田藩の出で、父親の仇を追って北海道に来て、仇を討った際にアイヌ部族の酋長も殺してしまう。仇討ちを認めない警察とアイヌ部族から追われて逃げるのだが、関係ない酋長も殺した上に逃亡するという行為の主人公には共感できない。
それよりも、主人公--といっても弟の方--に塾の先生を依頼し、彼と妹を保護する屯田兵の村の村長を始めとする人たちの立派さに目が向く。彼を差し出さないと村として西南戦争に加われないという状況でのギリギリの協議場面が見どころ。
新政府--天皇--のために戦うことを第一義とするところに、この映画が製作された時代背景が反映していると思われるが、兄が自首したことで弟を差し出さなくても済んだという結末。(ただその知らせが間に合わず、アイヌ部族に襲撃されるという展開はしっかりある。)
映画製作が厳しい時代にも関わらず、珍しい題材を取り上げた野心作。
nice!(0)  コメント(0) 

(V)『母の歳月』(1965年 水川淳三) [ヴィデオ]

主人公の半生を描く、戦争に向かう時代から敗戦直後を経て、現代までの話で、戦前の町のセットをしっかり作っているなどなかなかの大作。野田高梧の原作・脚本ということで力が入っていたのかもしれないが、水川監督を二作目で抜擢したのは、ヌーヴェル・ヴァーグ以後の人材を急いで育てる時期だったのだろう。
水川監督は、確立された切り返しではなく、カメラを大胆に動かしながらワンカットで撮ったり、鏡をうまく使った画面--三面鏡と本人の四人分の泣き顔--など、冒険的な試みをしていた。
戦争が終わって、せっかく復員した夫があっさり進駐軍の車に轢かれて死んでしまうまでは、各時代で起きた事件で話をつないでいくので、主人公の脳内音声で心境が説明される。この第一部が野田の脚本で、後半の第二部は赤穂春雄という脚本家--野田と同様戦前から活躍している--の手になる現代部分。こちらは時間を飛ばす必要がないこともあって語りが入らない。
今や女将となって料理屋を切り盛りする主人公の悩みは五人の子どもたち。下の子どもほど、母親の思い通りにならずハラハラさせられ、気の休まることがない様子を各子どもの挿話でつなぎ、情感たっぷりに見せる。
次女の彼氏が「原爆症」で亡くなるという戦争の後遺症も取り込まれていた。
ヴァイオリン奏者の次女がやるジャズらしき音楽を「ジプシーヴァイオリン」と称するのは初耳。
nice!(0)  コメント(0) 

(V)『名前のない女たち ~うそつき女~』(2018年 サトウトシキ) [ヴィデオ]

雑誌記者が、AV女優に話を聴いて半生を記事にしたものが「名前のない女たち」だが、この話は、その雑誌記者の日常と、母親から勘当され彼氏と暮らす女性と彼女の妹を描くもの。
自分のやりたい仕事ができない記者のいらだち、記者の前では幸せと言い切る女性の孤独な胸の内はしっかり伝わって来る。一緒に住む彼氏との交合場面は、照明を当てず暗い中で行われるのは、濡れ場を売物にしたものではないというサトウ監督の演出意図を感じた。
妹が突然事故死してしまったり--主人公の反応は描かれない--、老人介護施設での殺人事件など、話に起伏を付けるようなことは不要だった。
nice!(0)  コメント(0) 

(V)『鍵のある風景 Eカップ豊熟』(1989年 佐藤俊喜) [ヴィデオ]

『Eカップ本番Ⅱ 豊熟』
サトウトシキ監督も脚本の小林政広もまだ別の名前だった時代の作品。
夫は妻を愛している。結婚する前、男は、女が会社の同僚に強姦されている場に遭遇したものの、二人は結婚する。結婚後もその事件は二人に暗い影をもたらし、妻は夫が同情して結婚してくれたと思い、夫は妻に遠慮している。
妻が若い男と浮気しているというのはありきたりだが、夫の方は以前妻が暮らしていたアパートの鍵をまだ持っていて、別の人が住んでいるその部屋へ忍び込むという展開は斬新。その部屋で起こった過去の出来事が語られるのは、単なる回想ではなく、男が次第に現実と過去の区別がつかなくなっていく様子を見せるのに必要な場面。
二人が心の傷を克服して、新たに出直すというよくある展開にはならず、妻は若い男と駆け落ちし、夫は精神が錯乱したまま団地の部屋から飛び降りるという崩壊の図式。
それを淡々と見せるサトウ、小林の二人の資質は、すでにこの作品に備わっている。
nice!(0)  コメント(0) 

(映画)『娘三羽烏』(1957年 穗積利昌) [映画]

三人娘が顔見世する最初が秀逸。飛行機の客室乗務員、外国自動車の販売員、京都から出張帰りの雑誌記者。飛行機、自動車、電車と違う乗り物を使って三人とっも職業婦人であることを簡潔に見せる。
三人は姉妹だと思って見ていたら、途中で友だちだったことがわかる。三人が伴侶を見つける話なのだが、結婚に強い願望を持っているわけではなく、三人とも男性に対して自分の気持ちを明け透けに告白するところが、仕事を持っている部分と相まって新しい時代の女性を感じさせる。
最後は、二人が次々と相手を射止め、さて三人目もと思ったらそこはうまくいかない。同時に結婚式を挙げる--場所はニコライ堂!--二人が、式を抜け出して協力して、三人目も無事相手と結ばれるという結末。
それぞれの男女が接吻しようとすると邪魔が入るという形式が何度も繰り返され、微笑ましかった。
nice!(0)  コメント(0) 

(V)『シン・ウルトラマン』(2022年 樋口真嗣) [ヴィデオ]

脚本の庵野秀明は、「ウルトラマン」の世界観に、徹底して科学的な説明付けを施している。(ゆえに特殊任務を持つ隊員たちに制服や武器・乗り物は不要なのだ。)出来上がったものは、SF映画--空想特撮映画--として面白い。ウルトラマンのことをまったく知らない海外の観客に受けるのではないか。ただ内容は詰め込みすぎで、怪獣一体、宇宙人一体、そしてゼットン--ゼットンを怪獣としなかった創作は斬新--ぐらいでちょうどよかったのでは。
これは樋口監督の責かもしれないが、早口のセリフ回しと、人物を撮る際の特異な画面構成--実相寺監督を意識しのか--は、見ていてちょっと落ち着かなかった。
nice!(0)  コメント(0)