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(L)割礼@MANDA-LA 2(12/20/2019) [ライヴ]

割礼のワンマンは本当に久しぶり。前回もマンダラⅡだったと思うが、もう十年以上も前だろう。今回は、9年ぶりの新アルバム『のれないR&R』「レコ発」ライヴということで2日連続公演。
余裕で座れるだろうと開演十分前ぐらいに行ったら、イスは埋まっていて立ち見。でも、ステージ全体がよく見渡せたので、宍戸以外のメンバーにも目が行った。
それで各人の演奏を見ていると、それぞれ他のメンバーにおかまいなく、自分の音を出しているようだ。冒頭の「散歩」は不協和音ではないかぐらいに思えたが、特に緩いテンポの曲では、自分の好きに演奏をしているそうで、しかしそれでまとまっているのだ。これが割礼の秘密だったか。つまらなそうな表情で、必要最小限の音を弾く鎌田ベース。テレキャスターで、重い音を出しまくる山際。速い曲になると抑えていたものが切れたかのように嬉々として叩きまくる松橋。個々の音が宍戸のギターと重なりあって割礼というバンドの音となる。久しぶりに聴いた「HOPE」は、長尺ですさまじい演奏だった。
4曲50分の前半を終え、後半は、パーカッションの村瀬"Chang-woo"弘晶がゲストとして加わり、新アルバム全曲演奏。
まず最後に収録されていた「オレンジ」から。アルバムを聴いてもパーカッションが加わっているのはあまり認識できなかったが、ライヴ演奏を聴くと、キーボード的ないろいろな音を出していたのが村瀬だったかとわかった。アルバム全体が明るい感じを受けたのは、彼の音のせいか。
「ルシファーの悲しみ」は、そのパーカッションを物ともせず叩きまくる松橋のドラムスが凄かった。アルバムでは、珍しく生ギターを使っていた「アキレス」も、ライヴでは電気ギターで再現。その前に演奏した「ビアタタ」もそうだったが、新アルバムでは、各楽曲の隙間の効いたアレンジがよく練られている。
珍しく宍戸が話を始め、村瀬の紹介をする、名古屋時代三十年来の知り合いとのこと。その頃はこんな感じだったと「リボンの騎士」を演奏。やはりこのハードな感じがたまらない。全力疾走した演奏を終え、ここで一旦終了かと思っていたら、アルバムのタイトル曲「のれないR&R」がまだ残っていた。これは割礼の音楽を表したような題名だ。村瀬がキツツキのような音を出していた。
アンコールは、「ゲーペーウー」。この曲も、村瀬が加わって陽な感じがさらに強くなった。
宍戸はスーツ姿ではなく、初めから最後まで販売していた割礼Tシャツ姿。水の二リットルボトルを持ってきて、飲んでいる人もなかなかいない。
全12曲で2時間半とはさすが曲が長い。

<セットリスト>
1. 散歩 2. 光り輝く少女 3. ネイルフラン 4. HOPE /5. オレンジ 6. ルシファーの悲しみ 7. ストライプ 8. ビアタタ 9. アキレス 10. リボンの騎士 11. のれないR&R/en. ゲーペーウー
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(V)『トランボ ハリウッドに最も嫌われた男』(2015年 ジェイ・ローチ) [ヴィデオ]

ダルトン・トランボを描くとなると、ハリウッドの汚点に言及することになるため、大会社では企画しづらいのだろう、小会社の製作のようだ。
それでも、この映画で描かれていない部分は気になり、ジョン・ウェインなど俳優は出てきても--一番強烈なのはヘダ・ホッパというおばさんだったが--共産主義者を指弾した製作者や監督が登場しないのは、遠慮があったのか。
その中で、エドワード・G・ロビンソンが重要な役回りで、集めていた絵を売ってまで陰でトランボたちを援助しながら、公聴会で名前を挙げたのは俳優としての仕事を得るためだったという弁明は、逆に人間味があった。「脚本家は名を隠せるが、役者は顔を隠せない」
生活の糧を得るため、安い脚本料で名前を隠して書きまくるトランボ、それを利用しつつ援護もするキング兄弟--怒って破壊した額縁に飾ってあったのは『拳銃魔』のポスター--と本業のかたわら映画の主眼は、トランボの家族にあって、老成した雰囲気のトランボ、明るく支える妻、聡明な娘を演じる俳優たちが、狙い以上の効果を上げていた。
家族に支えられながら自らの意思を貫き通し、最後に賞賛されるという米国人好みの話。
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(V)『永遠のモータウン』(2002年 ポール・ジャストマン) [ヴィデオ]

モータウンの社長、プロデューサーや作家たちについての知識はあっても、確かに背後で演奏していた人たちまで思いは至らなかった。デトロイトに住む演奏の名手たちが、スタジオ演奏家として参加しているうちに、メンバーが固定され、ザ・ファンク・ブラザーズという名前までついたという流れ。
この映画は、その演奏者を集めて現地で行った記念ライヴ場面を中心として、間に彼らや関係者のインタヴュウを挟む形式。(再現ドラマも少々。)『ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ』が流行った直後らしい企画といえるが、演奏される曲が、これもこの人たちが演奏していたのかと楽しめるところが肝心。(個人的には知らない曲が多かったが。)
各楽器複数名の演奏者がいるので、ライヴでもギター三人とかドラムス二人など大人数。そこにいろいろなゲストがヴォーカルで登場する。
個人的に一番はミシェル・ンデゲオチェロ、次にブーツィー・コリンズだったが、よく知らなかったジョーン・オズボーンの存在感にも惹かれた。
ファンク・ブラザーズの面々は、もともと南部からデトロイトの自動車工場などへ職を求めて移住してきた人が多いようで、ジャズ音楽家であったところが重要な点。ジャズやブルースという背景が、ポップ音楽がソウル風味を加えることになり、モータウン楽曲の特徴となったという構図。ミシェルが歌ったテンプテーションズの「クラウド・ナイン」など一筋縄ではいかない曲だった。
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(V)『その男を逃すな』(1951年 ジョン・ベリー) [ヴィデオ]

主人公が、プールで出会った娘のアパートに身を潜めることになったのは、何となくの流れ。翌朝は出ていこうと思っていたものの、警察の厳重警戒と自分の母親の冷たい対応で逃げそびれてしまう。主人公に娘やその家族に迷惑をかけるつもりはなく、父親と娘を普段どおり働きにいかせたりと結構緩い。
家族を第一に考える父親の行動や、主人公に惹かれていく娘、悪人にあこがれる幼い弟といったように、各人の性格が話にアヤをつける。彼がふるまった七面鳥を父親が食べないという緊張感あふれる場面は面白かった。
決して万事休したわけではないのに、なぜ主人公にとって最悪の結果が待っていたのか。それは、彼が人を信じられなかったからだろう。おそらく、描かれていない母親との関係といった育ちに起因すると思われ、主人公への同情の念が沸き起こる。
この作品は、ジョン・ガーフィールドの遺作となってしまったようで、その脚本がトランボというのも何かの縁。
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(V)『殺人幻想曲』(1948年 プレストン・スタージェス) [ヴィデオ]

主人公は有名な指揮者。美貌の妻が浮気をしているという情報がもたらされ、妄想が膨らむ。
見どころは、演奏会でキャメラが指揮者の目に寄っていき、目玉の中に入ると場面が変わるところ。背後に鳴る音楽は続いていて、しばらくして気づいたが、この場面は指揮をしながら、主人公が頭の中で思い浮かべたことだった!
演奏曲目が三曲あって--ワーグナーとかチャイコフスキーなど有名な曲らしい--、その都度、違う妄想となる。そして、それぞれあとで実行してみるのだが、予期せぬことが起こってことごとくうまくいかないという喜劇。
始めの妄想は、なかなか手が込んでいて、妻を殺し、浮気相手の使用人に罪を着せるため工作をする。そのために録音機が出てくるのだが、レコードに直接録音ができる機械がこの時代に普及していたとは驚いた。指揮者だから持っていたのだろうが。
実際は、録音機をしまっている場所がわからず、部屋をめちゃくちゃにしてしまったり、手切れ金の小切手を書こうとしてインク瓶をひっくり返してしまったり。
結局浮気の事実はなかったとわかりハッピイエンドで終わる、主人公の独り相撲を楽しむ映画。妄想のおかげでいい演奏ができたのであれば、この先どうなることやら。。
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(映画)『水女』(1979年 キム・ギヨン) [映画]

キム・ギヨン作品には、同じような設定が繰り返されることがあり、この作品の夫が足が悪く、妻が吃音というのは、『高麗葬』の足と目が不自由な夫婦の変奏だし、貧乏な村という環境も同じ。また、女が男に殺しを強要する状況も出てきた。
一方、この作品の独自のところは、妻に竹細工の細工があって、日本製を見本に高級な製品を作り、村の女たちもそれに続き、村が潤ってくるところと、男がヴェトナム戦争帰りというところ。前者は、「国際児童年特選映画」という国の後援があるので、ついでに産業振興という意向にも沿ったのかも。後者は、物語の中ではあまり意味を持たないが、画面を赤くして戦闘場面をわざわざ再現するあたり、当時の韓国の状況として言及せずにはいられなかったのでは。
妻は、「母親から、金持ちになると男は怠け癖がつき、酒と女に走るので注意しろ、と言われた」と、当初から主人公を牽制していたのだが、怪しい男女--都会から来た水商売の女と、トラック運転手として雇われた男--の術中にはまり、予言どおりになってしまう。この男女の強烈なところ--毒薬で殺そうとする場面もある--は、キム監督らしく面白かった。
死後は主人公が妻子と円満な関係を取り戻すという珍しくハッピイエンドではあるが、女が、「あなたは私たちを見下していた」と主人公に反省を促すところは、キム監督おなじみも弱者の視点。
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(映画)『親分(ボス)を倒せ』(1963年 石井輝男) [映画]

石井監督単独脚本の本作は、思いっきりハードボイルド。主人公はヤクザだが、黒い--白黒映画なので色がわからず--カンカン帽とカブトムシ車という探偵の意匠。
彼は何度も、自分は世の中のクズだとか、お前も同類とか言って、自分をやり直しのきかないはみ出し者のように規定する。拳銃の使い手らしいが、日活アクションのようにそこを強調するとハードボイルドにならないと考えたのか、主人公が拳銃さばきを見せる場面はない。(弟を殴ったり、殺した殺し屋たちを自らの手で復讐することはない。)一番の見どころは、ボスの家で一番偉いボスに突如逆らって、用心棒と殴り合いをする場面。相手の腕をへし折るまで闘い、酔っぱらった女のフラメンコ踊りで締めるまで、延々と続く。
「弟に手をだしたら只じゃおかねえ」と啖呵をきったが、あっさり弟が殺されてしまう。ここも殺される場面は一切見せないのに、解剖室と棺桶の中の死体は見せるという安っぽいアクションはできるだけ排除しているようだった。
なので、最後も悪い奴を退治して終わりではなく、深手を負って弟の女にやさしい言葉を残して幕。これぞ固茹で卵。
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(映画)『霧と影』(1961年 石井輝男) [映画]

軽快な音楽--木下忠司--とともに汽車に乗って登場した後ろ姿の男は、丹波哲郎だった!殺された男の友だちということだが、奥さんを見る眼つきが怪しかったので、真犯人ではと思ったら、どうやら恋する目つきだった!(この恋は少しも発展しない。)
彼を中心とする新聞社の面々が、特ダネを物しようと異様に張り切るさまが面白い。的確に調査を進めて、犯人にたどり着くが、この人が犯人だったという意外性がなく、暴かれた事実は面白くなかった。
みうらじゅんが喜びそうな能登の崖と、道もないような場所にある閉鎖的な部落という設定が話の核となっている。その土地の火祭りの様子も見どころ。男が逃げる女を追っかける場面の撮り方--後ろから追いかけたり、前から見せたり--は、石井監督、新東宝のサスペンス映画で鍛えた腕のみせどころ。
図らずもなくなったばかりの梅宮を追悼する鑑賞となった。
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(B)『戦う女たち 日本映画の女性アクション』(四方田犬彦、鷲谷花編 作品社刊) [本]

男女の性別について考えさせられる優れた論考。
男役の立ち回りで人気を得た戦前の女優から始まり、男の恰好をして活躍する美空ひばりへと、女性がアクション映画の主人公として活躍するためには、男装あるいは女性性の放棄が見られた時代から、70年代女性アクション映画の、性的な暴力の犠牲という儀式を経て、悪者に立ち向かう力を得るという、女性のアクション英雄には、男性のそれにはない手続きが必要であることが、それぞれの主題の論文から浮き上がってくる。
そして鷲谷花によって、現在の女性アクション映画もその桎梏から逃れていないことが明かにされる。男と女が対等となったとはとても言えないということだ。
真魚八重子の論文を読んで、女性がポルノ映画を見る際の複雑な感情--①観客としての興味、②見世物ととしての居心地の悪さ、③映画の娯楽性への楽しみ--がどういうものか、初めてわかった。
四方田論文は『ブルース・リー』からの流れと、志穂美悦子への個人的な愛にひっぱられて、女性執筆者の中で、ちょっと浮いていた。
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(映画)『四つの恋の物語』(1965年 西河克己) [映画]

前年の『若草物語』と同様、四姉妹が主役。おまけに次女以外は配役も同じで、脚本も三木克巳(井手俊郎)。ただ、こちらは原作があるので、二作品に関係はないようだが。
冒頭、電話交換手をやっている三女が動き回ることで他の姉妹を紹介する手際があざやか。(全員職場が近い。)その後も、花のアップから画面をつなぐという心憎い技も見せる。
恋愛に関し、それぞれ悶々としている上三人に対して、父親の退職金--「遺産」と言ってしまう--の分け前を競馬で増やす四女の奔放さが、よい句読点となっていた。(競馬場は府中→グライダーは調布という撮影所の周辺でのロケか。)また、この年流行した「愛して愛して愛しちゃったのよ」を、三女、四女、父親がそれぞれ楽しそうに歌う変奏が可笑しかった。
題名どおり確かに恋は「四つ」あったが、四姉妹ではなく、三人と父親のことだった!
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