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(V)『デリヘル嬢 癒しの肉体』(2019年 竹洞哲也) [ヴィデオ]

ピンク映画の原題は『密通の宿 悦びに濡れた町』。
国の補助金をもらって作ったゴミ処理場が環境汚染となり風評被害を受けたという設定は、本当は原発問題とみるべきだろう。舞台はさびれた港町。
主人公は、客が来ない民宿を経営している。そこへ全国を放浪しているデリヘル嬢が場所を借りに来たり、やはりいろいろな場所を流れている労働者が一時的に滞在している。
竹洞ー当方による深刻路線の方の作品で、ゴミ処理場を設置した張本人である町長は主人公の兄で、風評被害のあと失踪中。また、その町長のもとへ行った娘が交通事故で死んでしまったことを嘆く父親と、町の人たちは一様に暗い。(民宿に泊まって自殺しようとする夫婦もいる。)
その中で、デリヘル嬢の陽性が皆を立ち直らせるのだ。彼女自身、両親が自殺という過去があるのだが、辛さを知っているから彼らにやさしくできる。
失踪中だった町長が帰ってきて、皆が許すという部分が説得力をもって描けていなかったけれど、放浪していた彼女が帰ってきてハッピイエンドという『悩殺若女将』的な流れに嬉しくなった。
竹洞はヒロインのアップは、愛らしく、この上ないキメ画面。
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(V)『義姉と女子大生 密室の吐息』(2018年 竹洞哲也) [ヴィデオ]

『つないだ手をはなして』。ピンク映画の原題は『青春のささくれ 不器用な舌使い』。
男は、結婚したいと思っていた女性に裏切られ、ひとりになりたくて田舎へ来たものの、そこでも叔母--「義姉」ではない--の浮気現場を見てしまい、女性不信がさらに募る。一方、女は、サークルの合宿のとき、手をつないで海に行く約束をしてくれた先輩への恋ごごろが募り、追いかけて田舎へ来る。彼女は、先輩のためにご飯を作ったり、いろいろ尽くすが、男は彼女を見向きもしない。
男のいいなりになり、無理に笑顔を作る彼女の気持ちがせつないくらい出ている。最後に別の男に海まで連れて行ってもらい、そこに思いを捨てることに成功したか。
一年以上たったあと偶然再会した二人。その時初めて、男は女にやさしくするけれど、女はもはや彼のことを思い続けてはいなかった。差し出した手を握るのではなく、パンチ一発。やられた男も笑ってしまうほど、見事な復讐。スカッとした。
舞台となった古い大きな家は『スケベ三兄妹』と同じ家と見た。千葉の田舎のようだが、連続して撮ったのだろう。
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(V)『レンタル女子大生 私、貸します』(2017年 竹洞哲也) [ヴィデオ]

『サイコウノバカヤロウ』。ピンク映画の原題は『レンタル女子大生 肉欲延滞中』。
主人公が居酒屋で画面に向かってしゃべっている。最後にそれは披露宴のためのヴィデオ撮影だったことがわかるのだが、こういう形式にしたことで、彼女の説明とともに縦横無尽にさまざまな挿話を語ることができるという利点が生まれた。
彼女が始めた「自分レンタル」という商売は、脚本の当方ボーカルの発明なのか不明だが、専門家がお金をとって相談を受けるというのとは違い、会って話を聞く行為は、自分レンタルをやっている本人にもよい影響を与えるというのが重要。自分では気づいていなくても、相手の気持ちの隙間を埋められるものを、与えられることもある。人との交わりが苦手な人の他人との付き合い方として、よい処方箋ではないか。
それで主人公は、引きこもりがちだった男にも自分レンタルを薦め、立ち直らせることに成功する。好きな男に対して、口は悪いが思いは一途という主人公の造形がとてもよかった。
演じる彩城まいなは、それに合った雰囲気だけでなく、ぶっきらぼうでも不快に感じさせない、高い声質が素晴らしかった。
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(B)『虹のヲルゴオル』(橋本治著 講談社文庫) [本]

「中味は外国の映画女優に関するエッセーです。」と最後に著者が記しているように、13人の有名な女優を選び、代表的な作品を詳細に分析しながら、その女優の特徴を描き出す。見た目だけでなく、どういう女性であるか、男性にとってどんな存在であるかを、その映画の中から見て取り、彼女の人生まで見切ってしまうという内容。
元の本が出版されたのは1988年。著者は40歳手前にして、女性のことも男性のこともよくわかっていた。これは恐ろしい。
著者が高校生の頃、映画評論家になりたかったぐらい、映画をよく見ていたとは認識していなかった。日本も同じだが、70年代までの一流の映画女優が特別な存在であったからこそ、このような明解な本が書けたとも言える。そして著者の中で、見るべき映画もその後出てこないということだったのかも。
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(映画)『湖中の女』(1946年 ロバート・モンゴメリー) [映画]

主人公--フィリップ・マーロウ--が、画面を向いて解説者のように語りかける場面以外、全編主人公の見た目ショットで展開する野心作。鏡がうまく活用されており、鏡の前で話をする場面が何度かあって、その際は主人公の姿が写る。
遺体が発見される場面だとか、回想場面も当然なく、さらに題名になっている湖に主人公が行かないので、会話だけで物語が進展していき、少々息苦しい印象も。(舞台劇を見ているよう)
しかしながら、主人公が会話する人物を、怪しい所がないか観察して、その裏の気持ちを推し量って、自らが犯人を突き止める気分が味わえる。話もなかなか面白い。
この語り口は、脚本が初めからそうなっていたのか、それとも主人公も演じているモンゴメリー監督の発明か。
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(映画)『家族を想うとき』(2019年 ケン・ローチ) [映画]

十年ほど前のノーザン・ロックの破綻で、持ち家を手放さざるを得なくなって以降、夫婦で働いてなんとか暮らしを建てている家族の話だが、描かれている出来事は日本でも起こっていることで、フランチャイズと称して決められた仕事をやらせ、何の補償もしない雇い主はコンビニ業界と同じだし、ITに管理されて時間厳守の配達業務、訪問介護者にばかり負担をしいる仕組みなど。
夫婦が必死に働いている中で、不良に走る息子にも言い分はあるだろう。その間に入って精神を病んでしまう優等生的な娘。ローチ監督はこのような家族の状況を淡々と描くだけで、助けの手をさしのべない。
主人公が居眠り運転で事故を起こすような安易な展開にならなくてよかったと思っていたら、もっと非道い仕打ちが待っていた。この事故によって、家族の絆が強まったと思わせたのもつかの間、日々は厳しく容赦なく続くというところまで見せる。『ダニエル・ブレイク』では、やけくそな行動に賞賛の声が浴びせられる場面があったが、この映画では、妻が病院で大声を上げても味方する人はひとりもいない。。何という暗い映画だろう。
しっかりものの娘の佇まいと、涼やかな声で話す母親の落ち着いた雰囲気が救い。
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(V)『安藤組外伝 人斬り舎弟』(1974年 中島貞夫) [ヴィデオ]

本人を演じる安藤昇--二十代もそのまま演じている!--の話を基に花形敬を主人公としたこの映画は、安藤以外が仮名であっても、映画版『疵』より事実に即している。主人公の造形も冒頭の学生時代の喧嘩場面から、理由もなく若い衆を殴り倒すところが実際の花形像を意識している。(さすがに180センチ超で主役を演じられる役者はいなかったか。)
兄弟分を演じる梅宮が、主人公に負けず劣らず強かったので、話に厚みが出た。彼が主人公をやる相談をする場面では、溶接工事の火花だけが明かりという手の込んだ演出。中島監督にしては珍しく東京撮影所の作品だが、手持ちカメラを多用しているところには『仁義なき戦い』の影響も。
最後は、安藤が組を解散することを決断するところで終わるが、本人は黙ったまま、字幕がかぶさるのも味があった。
出番は少なかったが、日活から連れてきた片桐夕子を立てるため、やはりロマンスが取り入れられる。ロマンポルノの人気に乗じて連れてきたのだろうが、たしかにふさわしい配役だった。
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(V)『疵』(1988年 梶間俊一) [ヴィデオ]

花形がパリッとした恰好で現代に登場したような雰囲気。昭和20年代ではなく30年、40年代のようにしか見えない。無軌道ぶりもあまりないし、恋女房とのロマンスを見せる話は、80年代後半の世相が影響しているのか。
喧嘩する場面で、振り回す拳や蹴りが一発で決まるところは、実際の花形を意識した演出と言えるが、それ以外、安藤や花形以外は、仮名か架空の人物だったのも原作と映画は別物と考えるべきなのだろう。
最後は、恋女房がアパートの部屋にいる白昼--実際は夜--に襲撃されるので、彼女の腕の中で、、と見ていたら、斃れてあっさり幕となり、逆に吃驚した。
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(B)『疵 花形敬とその時代』(本田靖春著 ちくま文庫) [本]

著者の花形敬を描く視点は明快である。自らが肌身で経験した時代の空気を基に、面識はなかったものの同じ中学--新制高校--の二年先輩という花形の人となりに思いを致す。一時ヤクザと背中合わせのような暮らしをしていた自らの兄も同時代人の例として挙げながら。
千歳高校の卒業生を見ると錚々たる面々が並んでいて驚くが、世田谷辺に住んでいた人たちは、あまり選択肢もなく同校に入り、さらにその先はそれぞれが能力を生かして何者かになるしかなかった結果がそうなったとも言える。
ひとつ留保をつけるとすれば、描かれている「その時代」とは東京という場所に限定されるということだ。地方の人には、このような選択肢はなかっただろう。
昭和20年代が終わるころには、世の中が落着き、ヤクザに対する世間や警察の見方も変わり、安藤組もそのままでいることは難しくなった。その中で、花形の居場所もなくなったのだ。殺された経緯が意外とあっさり書かれているのも、それ自体著者にとって重要でなかったからだろう。
題名は、花形の顔についていたという無数の傷あとを指すだけでなく、時代の疵、安藤組の中にあって疵のような存在であったことも表象している。
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(映画)『カツベン!』(2019年 周防正行) [映画]

子ども時代の挿話から、長じて活動写真の弁士となった男の前に彼女が現れるという流れであることが容易に想像されるが、男は、盗賊団の仲間の似非活弁士になっていたという変化球。(駒田好洋の物まねも!)警察から逃れるため映画館の下働きになって、そこで雇われている活弁士たちも巻き込んでのドラマとなる。
周防監督は、主人公と再会した彼女のロマンスや、彼が本物の活弁士として賞賛される瞬間など、物語上盛り上がるところを思い入れたっぷりに見せたりせず、さらりと流してしまう。それよりも、この話の要諦である活弁士という日本独特の文化をきっちりと見せる。「観客は映画ではなく、活弁士を見に来る」を具体的に画で見せてくれるのだ。同じ映画でも主人公独自の桃色解説や、邦画洋画かんけいなく、めちゃくちゃにつないだ写真にも、説明をつけてしまう!
脇役はおなじみの役者が多かったが、主役二人は見かけない人を抜擢した--わたしが知らないだけかもしれないが--ところにもも周防監督のこだわりがあるとみた。
音楽は、大正時代の演歌を意識し、編曲したもので、「東京節」の替え歌も登場。
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