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(映画)『お嬢さん』(1961年 弓削太郎) [映画]

主人公は女子大生。友だちも含めその結婚観は進歩的で割り切っている。この時代、都会の裕福な家庭の「お嬢さん」は、すでに新しい女性になっていた。主人公があっさり結婚する成り行きは、ほとんどお遊びのよう。
ハイカラな料理を勉強してよき妻になろうと努めるが、夫が浮気をしているのではという疑心に取りつかれて家出をしたり、結局は普通の主婦になっていく。遊び人だった夫は、結婚してからは妻を一途に愛していたことがわかり、めでたしとなる。
公開時期がほとんど同じだが、若尾と野添の掛け合いは、この作品を助走として、『婚期』の息の合った姉妹へと発展した。大学が一度も登場しないこともあってか、二人が大学生には見えなかったが。
あんこ巻きを焼きながら、「やいてない」と言う場面が可笑しかった。「永すぎた春」という同じ三島原作映画を意識したセリフがあった。
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(V)『変奏曲』(1976年 中平康) [ヴィデオ]

70年代によくあった、男女を海外それもフランスにおけば雰囲気のある恋愛映画の出来上がり式の作品。そういう偏見で見ると、それほど悪くなかった。
主役の麻生れい子に、『やくざの横顔』での不良娘の魅力は失われていたが、大人の色香があり、鼻の穴の形が美しかった--撮影の浅井慎平はそれを知って顔を下から撮る画を多くしたのか--し、活動家の男を演じていたのは佐藤亜土というパリ在住の画家とのことで、すれた活動家に似合っていた。二人のセリフ回しが、アフレコだったせいもあってか、本を読み合っているようだったけれど。
原作は、先日東監督の映画を見た際、話題に出た人。
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(B)『リアリズムと様式美 井川徳道の映画美術』(井川徳道著 多田功・田岡広編 ワイズ出版刊) [本]

同じ京都であっても東映と大映の美術の重量感の違いが、著者からの具体的な説明でよくわかった。役者が綺麗に写ることを第一とする東映にあって、その制約の中で著者がどのような工夫をしてきたのか。詳細に語られる『お竜参上』と『序の舞』は、著者の美術が作品の成功に大きく寄与した例。
東映は他社に比べて新興会社だから、余所から来たものを受け入れないというのは会社の体質ではないと思うという発言には考えさせられるものがあった。
東映京都一筋である著者の出発は、近代映画協会で、68年、69年には京都や尾道で撮った三作品を手伝っているのは見逃せない。新藤監督のリアリズムの話や名言も知ることができた。
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(V)『赤い雪』(2019年 甲斐さやか) [ヴィデオ]

昔の事件を掘り起こすというのよくある話なれど、真実を暴くことが主眼ではない。三十年間、塗りの仕事をして心を落ち着かせてきた男が、ふとしたことから、弟が殺された記憶を噴出させてしまうさまを見せられる。また、事件を目撃していたと思しき加害者の娘も、やはり昔の記憶を思い出してしまう。反対側の立場だった二人が、子ども時代親から受けた仕打ちの記憶にたどり着くという相似が見事。
記者を殺す場面を見せないなど、説明を極力排する語り口はよく計算されていて、その延長にある結末だと納得。色味を抑えたと思しき画面、雪が降る島という舞台も含め、甲斐さやか監督のしたたかさ恐るべし。
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(V)『生きてるだけで、愛。』(2018年 関根光才) [ヴィデオ]

今の社会を描くのが映画なので、主人公がうつの女性というのも当然あってしかるべき設定。男は、彼女と合コンで知り合い、彼女に惹かれて、自分のアパートに住まわせる。それだけで彼女にとっては神さまのような存在なのに、彼に感情をぶつけて困らせる。その彼も、仕事がうまくいかず鬱憤をため続けることになり、彼女を受け止める余裕がなくなってくる。
男がため続けていたものを全部投げ出す場面は、まるで彼女の感情が暴発したようで見事だった。それぞれ自分のことで精いっぱいだった二人が、相手の気持ちを少し考えるという締めくくりは、それ以上やるとお涙頂戴になってしまうギリギリのところで踏みとどまった。
彼女が夜の街を走る場面は、閉塞的な話の中にあって見所どころとなるが、カットが短かったり、変にスローモーションを入れるなどあまりうまくなかった。
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(映画)『初恋』(2020年 三池崇史) [映画]

開巻から場面がいろいろ変わり、登場人物が次々に紹介される語り口。ひととおり紹介が終わって題名が出る。ここまで約15分。地元ヤクザと中国人組織の諍い、それも舞台は歌舞伎町と、90年代の三池映画が戻ってきたような気分。(ネズミが後ろを走っていた!)
俳優たちのアクションの速さが、映画の展開を加速する。さらに刑務所にいた幹部--刑務所のことを「寄せ場」というのは最近の流行?--が、いみじくも言うようにスマホという便利なものがあるので、目指すものの場所がすぐわかって経緯が省かれるので、話が速い。笑いもしっかり入れつつ--車の正面ガラスに飛び乗ってくる場面や、聴いている音楽がハリクヤマクだったために、幻覚の父親がパンツ一丁でカチャーシーを踊ってしまうところなど--、一気にクライマックスに向かう。
必死に逃げる悪徳刑事が、監視カメラに「何見てんだよ」と悪態をつく場面がサイコー。彼やヤクザたちが強烈すぎて、主役のはずの男女の存在が弱くなってしまったという不都合が生じてしまったが、その分最後に時間を残して、二人の立ち直り場面を描いていた。アパートに帰っていく二人の姿をロングで捉える最後は、余計な説明の必要もなく、二人の状況がわかる。映画の題名はここで出すべきだった。
立体駐車場から飛び出してパトカーを飛び越える場面をあえてアニメーションにしたのは、プロデューサーのジェレミー・トーマスが海外市場を考えてそうしたのかも。それがなくとも面白い漫画のような映画。
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(V)『大いなる愛の彼方に』(1960年 大野徹郎) [ヴィデオ]

恋愛映画のような題名だが、女子少年院の話。その中で特に反抗心が強い女子が主人公として話が展開するが、終盤、冒頭で赴任してきた女教官が話をさらっていく。
彼女がもろ肌脱いで、背中の刺青ならぬ鞭の痕を見せて、自分も不良だったことを告白する場面が凄い。つっぱっていた少女たちを一掃してしまう破壊力。少年院を出て真面目に働こうとしても世間から白い眼で見られて思うようにはいかないという主題を明確に打ち出していた。
しかし、この場面もそうだが、作品全体的に余韻を考慮せず、さっさと次の場面へ進んでしまう傾向があった。クライマックスも、行方不明になった主人公の行動がよくわからないまま、みんなの心がひとつになって、おまけに嫌味な上司までやさしくなるという安易なまとめ方。
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(V)『やくざの横顔』(1970年 小澤啓一) [ヴィデオ]

殺伐としたヤクザ映画ではあるが、冒頭主人公が船員として働いていた船が横浜につく場面は、明るく始まり、船が出航する最後もその雰囲気。
主人公は、刑務所で二年、船で一年過ごし、ほとぼりが冷めたはずだったが、引き続き命を狙われており、実家のある北九州へ戻れない。しかたなく、バア兼ホテルをねぐらとするが、そこの主人と娘、偶然遭った謎の女など、周囲の人たちがハードボイルド風味。(ホテルの主人が彼のためによくしすぎる感はあったが。)
最後は、ヤクザ映画の形式で、悪い奴らを懲らしめに行くが、殺してしまえば刑務所へ逆戻り、さりとて中途半端だと盛り上がりに欠けるという板挟み状態を何とかうまくまとめて、爽やかな結末。
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(映画)『女めくら物語』(1965年 島耕二) [映画]

主人公の脳内音声音が入り、一人称的に語られる形式が、主人公の周囲の世界だけを見せることになって、我々も主人公同様想像を働かせることとなる。惚れた男が約束どおりに来なかった理由も、本当のところはわからないが、説明されないことで、男の価値が損なわれずに済んだ。
船橋聖一の原作は、おそらく目の見えない按摩の主人公が、自ら境遇を受け入れて生きる道を定めるという話で、そこには境遇を打ち破ろうという視点がもともとないのだろう。故に映画も、好きな男のことを諦めてしまうという物足りなさで終わることとなった。
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(映画)『婚期』(1961年 吉村公三郎) [映画]

女三人、男二人の兄弟姉妹。デザイナーの長女は家を出ていて、長男夫婦が家を切り盛りしている。同居している次女29歳、三女25歳の関心事は、自分たちの結婚と、兄嫁いびり。「財産目当てで何もしない」と、自分たちのことを棚にあげて、事あるごとに文句を言う二人。一方、兄嫁は家事はそれなりにこなしていて、とぼけた感じ--裾から下着がでていたり、いびきをかいて居眠りをしたり--だが、実は心の中ではいろいろ計算していることがだんだんわかってくる。そこに絡む、お手伝いの婆や--北林谷栄--の愚痴がまたケッサク。これら女性のやりとりを、水木洋子が徹底的に描写したという感じ。
澁谷監督あたりが撮ると、毒の強い滅茶苦茶な喜劇になりそうだが、宮川一夫の陰影ある画面--夜の家の中--を得て、ふと女性たちの個々の悩みを映し出される瞬間があった。それぞれが足元の幸せをかみしめるというハッピイエンド。
吉村監督は珍しく、三人が画面に入る場面を二度ほど、真上から撮るというショットを入れている。これはどちらの味方でもないという神の視点を強調しているのだろう。
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